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マスコミの責任を回避する言葉「~かもしれません」

 テレビの報道番組を見ていると、次のような場面にしばしば出会います。それは、様々な事件や事故について、それらの背景や問題点などを、事件や事故の起きた現地から取材担当者の報告も入れて詳しく解説する報道番組です。さらにコメンテーターと呼ばれている数人の意見も紹介します。そして、最後のまとめとして、報道番組の解説者が「これは~であると言えるかもしれません。」と述べて終わる場面にしばしば出会います。

 これは良く言えば「上手なコメントの仕方」と言えるでしょう。しかし読者の皆さんは少し意外に思うかもしれませんが、敢えて意地悪く言えば、この表現は報道する者の責任を放棄した表現になりかねないと思います。

 「~かもしれない」ということは、同時に「~でないかもしれない」ということも意味しています。別な表現をすると、「~なのか、~でないのか明確には断定はできない」ということであります。したがって、この表現は事件や事故の背景や問題点について、「別の可能性がある」ということを意味しています。

 もし、不確かなことを述べるのであるなら、解説者は「我々はこの事件・事故について、いろいろ調査したが、背景や問題点について確かなことはよく分からなかった。」と言うべきであります。(但し、それでは報道に値しないと私は思います。)ところが、最後に結論として述べる「~であるかもしれません」と述べる直前までの解説を聞いていると、「ほぼ間違いなく~であるだろう」と言わんばかりの強い確信の度合いで述べています。そのため、いよいよ最後の結論部分になって、私は何か肩透かしを食ったような気持ちになるのです。

 そこで、断定表現を避けるこの「~かもしれません」という表現を、テレビなどの解説者がなぜ使うのか考えました。その理由は、解説者が自分が結論で述べた意見について、当事者側などから反論があることも十分に予想して、その対策として、そんな場合に「自分はあくまでも『~かも知れません』、と一つの有力な可能性を述べただけであり、一方的に決めつけるような意見を述べたのではありません」と反論に対して言い訳ができるからです。もし、解説者がここまで考えて、「~かもしれません」と述べているのであれば、かなり巧妙な表現であります。

 もう一つ別な視点からこの表現を考えました。解説者は「断定表現を避ける表現を使うことは、解説者として謙虚な姿勢であり、当事者側に優しい表現である。」と思って使っているのではないだろうかと、私は思い始めました。「~かもしれません」と述べることで、批判したり、問題点を指摘する対象とする相手側に対して、決めつけた表現を使って、決定的なダメージを与えないようにしよう。つまり「相手を思いやる優しい気持ちが表れた表現である」と解説者は思っているのではないかと、私は考えました。そうであるなら、この表現は解説者の優しい気持ちの表れであると解釈できます。

 しかし、それでも私はこの表現はずるい表現であると思います。公共放送で事件や事故を取り上げる報道の目的を考えると、報道とは、非難される相手がたとえ傷つくことがあるにしても、事件の背景や問題点を指摘して、人々にそれらを知らせて説明することが、健全な社会を創造していくことに貢献する役割を果たしすことだと思うからです。

 ある表現をいろんな意味や意図が読み取れれる「含みのある表現」として使うことは、文学作品であれば、その作品に幅や深みを持たせるすぐれた表現形式である思います。しかしながら、一般視聴者の解釈の仕方によって、いろんな意味や意図に取れるような意見や主張の表現形式を使用することは、結果的に「玉虫色」の意見や主張になると私は思うのです。これでは何のために解説者は視聴者に向かって意見を述べたり、主張をしているのか分からなくなります。

 さらに、「~かもしれません」という表現は、視聴者が報道に対して疑問を持ち質問した場合に、視聴者である相手に対して、ころころと自分の意見や主張を変えることで、相手側からの反論に対して、ごまかしやすくすることにもなります。したがって、解説者がいよいよ結論を述べる時になって、この「~かもしれません」という表現を使うことは良くないと私は思うのです。

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