嫌いが無ければ好きもない

全てにおいての物事や他者を好きになれると自称している人間って、全て|普通《フラット》に捉えてる人間なんだと思う。

全ての物事を好きになれるなんて状態は、人間の感性ではあり得ないと僕は思うからだ。



美醜

僕らが美形を認識できるのは、不細工を認識できるから。

好き嫌いがないということは、見る人間全てが美形に見えるということ。

その感性は、美形であることが当たり前の感性。つまり全員が普通顔の感性。
みんな美形なら、みんなが同じレベルということなので、みんな美形じゃないということ。


というか人を認識する機能ぶっ壊れてるだろ。


少なくともアイドルを好きになることはなさそう。
集団アイドルなら全部同じ顔に見えてるのだろうし、そもそもアイドルじゃなくても、友達に同じ顔がいるなら推し活をする必要はない。



味覚

あとよく「俺は食べ物に好き嫌いない。なんでも食べれる」と言ってる人がいる。


それもない。断言する。


食べ物って人とか地域によって定義が違う。

全ての人間の定義に合わせられる?

中国では、水ゴキブリを食べる文化があるらしい。

好き嫌いがないと言ってる人は(自分が食べ物だと思ってる範囲の)食べ物で好き嫌いが無いということ。 


《自分の好き》と相反する性質を持ってるものって、観測範囲を広げていると絶対現れる。
全部好きでいられるのは、仮に現状20%の観測においてだけで、それを40%に広げると出てくる可能性がある。

というかそれが自然。観測範囲を広げるほど、色々な性質が出てくるよ。




日本での食い物は全部好き?

ならアジア全体の食習慣ならどう?


世界全体なら…?


宇宙人の食生活……😇😇😇





しかしこれらは好きがあるならの前提。
いつまで観測範囲を広げても嫌いが出てこないなら、全部好きになれる感性を持っているのではなく、そもそも感性が死んでる可能性が濃厚。

どれを食っても同じ味しかしてないのでは??


顔のレベル格差が分からない人間と同じで、味に差を付けられてない疑惑が発生する。

全部好き、ということはそういうこと。

感性を持っているなら「森羅万象全部好き!」は不可能だと思う。



物語

日本昔ばなしの桃太郎において、登場人物を全て好きになったら、桃太郎を楽しめないだろう。

桃太郎のミソは、鬼が倒されるところにあるわけで。
嫌いな奴が痛い目を見る爽快感。ヘイトの利用。



…ということは、鬼を嫌いに思えてないと桃太郎を真に楽しむことはできないということでもあるよね。


「鬼が盗みや暴力働いてるけど、強いから鬼のこと好き〜」
「おじいさんおばあさんは勤勉だから好き〜」
「サルもキジも可愛いから好き〜」
「桃太郎カッコいいから好き〜」
「鬼と動物が喧嘩してるけど〜……みんな好き〜!!!」


それ感性死んでるよ。鬱だよ鬱。それか興味ないんだな。興味を持てないなら、桃太郎も楽しめない。ミソが分かんねぇんだもん。



「全部好き!」な人は、好きと言ってるだけの無関心。か、鬱。

鬱病ってだから、何に対しても興味が湧かないっていうじゃんね。
全部好きっていうのは、本来そういうことなんだと思う。
何に対しても無関心だから、好きだと言える。


僕もメンタルが病んでた時は、何を見ても特に不満は無かった。

ただ、楽しさもなかった。

嫌いと思うことはなかったが、好きだと感じることもなかった。
物事を好きか嫌いかで割り切るなら《好き》なんだろうけど。嫌いじゃないから。消去法でそうなる。

でも本当は何も感じてない。
全てを普通フラットに捉えてる感覚。冷めている。
辛くはないが、楽しくもない。ただ砂漠のように虚しい。

鬱病の人間には、機械のような認識パターンがあるという。

うつ病傾向の人の方が一般の健常者よりも現実認識において優れている、と考えるのが、うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)という理論なのです。

うつ病の人は一般の健常者以上に現実的に正しい考え方をしているのだから、直すべきはむしろ一般健常者の考え方であって、うつ病の人の現実認識ではない、と言えるからです。こうなると、「うつ病的リアリズム」の理論は、私たちが普段行なっている認知行動療法と対立する考え方に見えてきます。

まあ仮説だけど。
根拠も結構弱いし。

でも、鬱病患者は感性が死ぬことは確か。
趣味は楽しめないし、喜怒哀楽の感情起伏が乏しくなる。


だから、嫌いなことを恥じることはない。
嫌いな対象が多くてもいいし、皆とはズレててもいい。
それは心が生きてる証拠だから。
嫌いという感性を大事にしよう。

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