役割を全うすることと存在価値は別ではないか
最近、有名人の訃報が続いていますね。
関連のニュースをTwitterで見ていたところ
「他人からの評価が自分の存在価値を疑うきっかけになる」
という意見を見ました。
それをきっかけに色々派生して思ったことがありまして。
上記のこと、確かに経験があるなぁと思う一方、存在価値なんて必要か?とも今は思います。
生死を問わず、一瞬でも存在していただけで誰かには影響を及ぼしています。
例えば胎児。お腹の中でたとえ亡くなったとしても、その子を宿した母や家族などには良し悪しはともかく影響を与えています。
社会の一員として社会に貢献し価値を提供するかどうかは「存在価値」とは違うと思います。
例えば、仕事ができる人とできない人で存在価値が変わるとは思いません。
もし仕事ができなくて迷惑ばかりかけている給料泥棒は存在価値なんてないんだ、と考えるのであればとんだ選民思想というか優性思想?だなと思います。
では仕事ができると評価されてる人達だけを集めてみたらどうでしょうか?その中でも優劣はついていきます。きりがありません。
社会に価値を提供、ということでわかりやすく仕事で例えましたが仕事をしていないからといって存在価値がないかというと絶対違うでしょう。
子供、子育て中の専業主婦、引退した老人等々を考えれば分かります。
このように考えていくと、存在価値とは結局なんぞや?何を以て「存在価値がある」とするのかは定義できないと思いました。
定義できないものに悩むのは時間がもったいないです。
俺に存在価値があるのか?
と、ネガティブな気持ちでこれを考えるとき、ただモヤモヤするだけです。
そして存在価値と、「役割」を果たすことは分けて考えた方がいいと思います。
例えば役職につく人。
部長だから、専務だから、社長だから自分には存在価値があると考えてしまう人も少なからずいるかと思います。
でもその役職でなくなったら存在価値はなくなるのでしょうか?
上司、親、などなど「役割」を存在価値と結びつけるとおかしな事になります。
役割は役割として全うすればいいですが、例え何の役割があろうがなかろうが人間としての優劣がつくとは思いません。存在価値は定義できないので比較しようがないのです。つまり優劣のつけようがない。
例えば社長として経営していたけれど失敗して倒産したとします。
ここで、「倒産させた自分は、存在価値がない」などと考えてしまうこともあるかもしれません。
ですが、社長という「役割」を果たさなかったから存在価値がないと考えるのは、ちょっと待ってほしいのです。
役割を全うすることとと存在価値は別なのではないでしょうか。
というか、存在価値などという言葉、概念自体に違和を感じます。
結局、人間に対する存在価値なんて概念自体が存在し得ない(と思う)のだから自分に存在価値なんて別になくても良いのでは?と思います。
存在に価値があるかどうかは分かりません。でも存在していることで、誰かには影響を及ぼしています。
影響を与える力は誰にでもあります。
ただそれだけ。ここに善悪なんて関係なくて、ただそれだけ。
個人的には、「だったら。どうせなら、いい影響を及ぼしたいな」と思います。
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