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縁起、つながり

最近、仏教に興味があり関連書籍を読んでいる。個人的にめちゃくちゃ面白い。


そこで縁起という概念を知った。


簡単にいえば、この世界はさまざまな要素、要因のつながりで成立している、というところだろうか。
もっと簡単に、一言で言えば「つながり」だと思う。

一つ前の記事で書いたことはまさに縁起だったんじゃないかと思う。

娘を通して先代のお花から次のお花へと、花を育てるという習慣と花を愛でる心が、娘に渡されている。


なるほど、良い因を発生させられると良い縁(因縁)に繋がる(ことが多い)んだなと納得した。


神様が見てるから◯◯するとバチが当たるよ

などといって恐怖のモチベーションで何かを禁止したり制限したり、または行動するよりも、よっぽど納得したうえで、腑に落ちたうえで、自分の行動を律したり俯瞰できるなぁと思った。

そして、私が起こしたら因が縁として再び私に返ってくることはもちろん、他人にも影響を与えることも多いと気付いた。

例えば、意地悪な先輩に指導された私は、その恨みを晴らすかのように後輩にも意地悪をするかもしれない。
逆に親切丁寧に指導してもらったら、後輩にも同じく親切丁寧に指導する、みたいに。

つながり。

人から人へのつながり。

自分の考え、行動などは未来へ何かしら影響を及ぼす。

今と未来のつながり。


未来は「今」の積み重ねでできている。
月並みな言葉だが本当にそうだと思う。


人は今を大切にするしかできないし、それが未来へつながる。


(余談だが実はこのことは鬼滅の刃を読んだときも強く感じた。)

善行を積む、なんていうと以前の私ならなんだか宗教的だし、堅苦しいし、めんどくさそうだし、どこかしら制約のように感じていたのだろうが、今は腑に落ちている。

別に良い人になりたい訳ではない。目的はそこじゃない。人生を生きる戦略的に採用すればいいと思う。


私は元々、「人は必ず良し悪しや大小はともかく誰かに何かしらの影響を与えている」と考えていて、せっかくだったら自分にも人にも良い影響を及ぼしたいと思う。


ちなみにだが、上で示した意地悪な先輩→私→後輩の例だが、よくスピリチュアル界隈などでは
自分に原因があったから意地悪された、というように、起こること全てが自分のせいみたいな考え方があるがこれは賛成しきれない。

たしかにそういう部分もある時もあると思うが、全てがそうでは無いと思う。
先輩が意地悪なのは100パーセント自分のせいなのだろうか?


心の弱っている時にこのようなスピリチュアルにハマってしまったら余計に苦しくなるような考え方だと思う。

大事なのは、先輩からの意地悪の「因」を自分で止めることだと思う。意地悪されたから意地悪をしてしまうなんてダサい。ダサすぎると思う。
意地悪してしまう前にその心に気づきたい。

だって、未来にその因を持ち越して自分にも他人にも良いことある?と個人的には思う。


そして、悪因を良い因にできたらそれこそ自分に良い縁として返ってくるんではないかと思う。


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