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食べものにも顔がある。


突然だが、わたしには『食べものの顔』が見える。


いま「頭のおかしいやつだ」と思っただろう。

もしかしたら一部の人は

「わかるわかる」と感じてくれたかもしれないが、

大半の人は「なにを言ってんだ」状態に違いない。


たとえば、プリンを食べようとしたとき。

目を閉じてゆらゆら左右に揺れながらプリンが

「食べて食べて~」

と可愛く言ってきたり。

焼きたてのフレンチトーストにたっぷりのはちみつをかければ

「ふああああ」

と、はちみつのシャワーにフレンチトーストが喜んでいたり。

おにぎりを握るため炊き立てのご飯をよそっていると

「ねえ、何おにぎりにするの?」

「今日はおかかにチーズが良いんじゃない?」

「いや、たまには味噌を塗って焼きも良いんじゃないか」

と、つやつやのご飯粒たちが湯気を立てながら口々に言うのである。


それは料理をする工程で見えることもあるし、

素材そのものが、お買いものの段階で喋っていることもあるし、

ポテトチップスを食べるにしても、封を開けたら、

「どうよ、いいにおいだろ俺。きっと全部あっという間に食べちまうぞ」

と聞こえたりする。

食べるものみんな、そんなふうに見えてくるのだ。


そんなふうにして、食べものたちが、

「かわいい器に入れてくれてありがとう」

「おいしくしてね」

「ふーん今日はそうやって食べるのか」

とか言ってくると、その子たちの期待に応えたくなる。

おいしく食べようって思う。


そうすると

「食べる」という行為がだんだんたのしくなってきて、

食べる前の段階からたのしむようになり、

いっそう、食べものがおいしく感じられる。


たとえば毎朝食べるトーストも

ただ焼いて、バターやジャムを塗って食べるのもいいけれど、

バナナを輪切りにして整列させシナモンシュガーをふりかければ

バナナたちが「僕たちおいしくなれるね!」と大騒ぎ。

明太ポテトサラダを乗せてみれば

明太ポテトサラダが「ふーんなるほど。きざみ海苔も乗せようぜ」

と言ってくるのだ。

焼き上がりにはトーストが「おお~」と感動してくれたり

「いいねえ、おいしそうだねえ」と褒めてくれたりする。

それがたのしくて、

わたしは時間に余裕を持って「食」の準備をしたくなる。

「食」の時間にゆとりを持とうとする。

持つようになる。

食べものと対話をするのはたのしいし、

対話により、もっとおいしくなる。


話はトーストに戻るが、

もちろん、バターを塗っただけのトーストもとってもおいしい。

表面がかりかりで、中がふかふかに焼けたトーストに

じゅわっとバターをしみ込ませ、黄金に輝いているのを頬張る。

なんとも贅沢。

けれどもその贅沢を感じることなく、

急いで口に詰め込んだり、流し込んだりすることが

本当にもったいないことなのだ。

せっかくの食べもの、みんなに顔があって対話もできるのに

それじゃあ全然、食べものの顔が見えるわけなどないし、

声が聞こえてくることもない。

「おいしい」とか「たのしい」と感じる時間もない。


みんな顔があってかわいい。

それをみなさんにも知ってもらいたく、この文章を書いている。


わたしには食べものの顔が見えるようになってから、

今まで適当に済ませていた食事も

「今日はあの子をどんなふうに食べようか」

「いまいる子たちでどうやっておいしい料理にしようかな」

などと考えるようになった。


おやつであっても

「この作業を終えてから食べたらきっとあの子はもっとおいしい」

「あの人と食べるほうがおいしいだろうからもう少し寝かせておこう」

などと考えて食べるようになった。


食に十分な時間をとりたくて、

以前よりも早起きをするようになった。

早く帰宅するようになった。

翌日の朝ごはんをよりおいしく食べるため、

夜遅くまでの食事やおやつを控えるようになった。

翌日の「おいしい」を考えると、自然とそんなふうになれる。


そのことが、とてもたのしい。


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