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[エストニアの小説] 第3話 #3 ニペルナーティ(全10回・火金更新)

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 「トゥララ、眠ってるの? 怖がらないでいいんだよ、ドアを開けなくていいから。ちょっとここに座ってるだけさ。もし君がかまわないなら、おしゃべりでもしたいね。いいかい、トゥララ、わたしは悲しくて、眠れないんだ。わたしの眠りを奪うやつがいた。それが夜の雲であれ、森の鳥であれ、ヒューヒュー音をたてて吹きまくる風であれね。森を歩いていたとき、野ウサギが目の前を走っていった、これは悪い印だ」
 「わたしは世話人として仲介者としてここに招かれたんだ。そいつらは『来い』と言った。でもわたしはおそらく堕落した人々と出会ってしまったんだ。ここの暮らしを見てごらん。どんな暮らしぶりか。耕されないままの畑があって、石だらけだ! 家々は見捨てられたままだし、屋根はザルみたいに雨漏りする。サウナさえ潰れかけていて、どうして崩れ落ちないのか不思議でしかたない。酷い農場に、どうしようもない人たち。金持ちは一人もいないし、素晴らしいものも皆無だ。この農地は何度となく抵当に入れられたし、何度も売っぱらわれた。馬はヤギみたいに痩せ細っていて、一歩あるくたびに休まなくちゃならない。牛は春のカバノキみたいだ。乳の下に入れ物を置けば、ショットグラス一杯分の薄くて質の悪いミルクが、1年に1回くらいはとれるだろう。自分で飲みたくもなく、農夫にやるのも控える。本当にわからないよ、トゥララ、君がこの農場で働いていることが、ここを離れようとしないことがね」
 「じゃあ、どこに行ったらいいの?」 トゥララが眠たげな声で訊いた。
 ニペルナーティが見上げると、トゥララがドアを開けて隣りに腰かけた。
 「本当に君はアホのトゥララだ!」 イライラした調子でニペルナーティ。「どこのどいつがドアを開けて隣りに座れって言った! どんなやつがこの呪われた洞窟に住んでいるか、神様は知ってる」
 そう言うとニペルナーティは困惑しているトゥララを納屋の中に押し込んで、ドアをバタンと閉めた。

 空の端が、産みの苦しみで赤く染まっていった。
 するとニペルナーティはさっきまでの怒りを沈めた。「起きろ、この脳なしが!」 そう叫んだ。「太陽が半分まで昇ってきたというのに、みんな屍のように眠り込んでいる。額に汗して生きろと言われて、これが人のすることか?」
 ニペルナーティは鋤をつかみ馬を連れて、牧草地へと突進していった。この男、乾いた土を耕してみたが、悪魔がそのあとをついてまわるように砂埃が舞うのみ、砂煙があがるばかりだった。

 すぐにニペルナーティは農場の一員になった。この仕事を好きにはなれなかったものの、農夫たち、召使いの女たちに指示を与え、監督をした。すると人々は犬に噛まれたみたいに、畑を走りまわった。そして夜になると、ニペルナーティはみんなを集めて、ツィターを弾いたり、自分の人生で起きた奇妙な話の数々を聞かせた。
 農場主の妻はこの男を敬愛し、誉めそやし甘やかし、それでも満足できないくらいだった。するとこの男、トーマス・ニペルナーティは突如感傷的になった。目に涙が溢れ、しゃべると声が震えだした。「いったいどうやってあなたからの敬意を受け止めたらいいのか」 そして森に出ていって、木に登った。ニペルナーティは鳥たちの巣がどこにあるかすべてわかっていたし、シカの住処もことごとく知っていた。またあるときは、海辺で何時間も夢見心地ですわっていた。

 あるときニペルナーティはシカを捕まえて、この家の娘、エロのために連れ帰った。またあるときは、森からタカを連れてきた。しかしこの家の娘はどちらにも関心を示さなかった。
 「いったい何をつかえまえてくればいいんだい?」 ニペルナーティは文句を言った。
 エロはこの男の目をじっと見てこう言った。「何もいらない」
 「何も?」 ニペルナーティは驚いた。「つまり……何もいらないってこと? 一人で家でじっとしてるのに退屈してると思ったんだけど。動物がいれば君を楽しませてくれるのに。牧師が会いに来ることは滅多にないけど、それに文句を言うわけにもいかない。足が悪いからね」
 エロがニペルナーティを怒って見つめると、その怒りにびっくりしたとでもいうように早口でこう返した。「この単細胞のわたしを許してほしい。礼儀正しく話す方法を知らないもんで。なんか悪いことを言ってしまうことが、よくあるんです」
 「今晩、あなたは、わたしと一緒に牧師のところに行くの」とエロが突然言い出した。「一人で行くのは退屈、あなたの話は面白いからね。婚礼について心を決める日がついに来たの」
 「あー、それはよかった。素敵だ」 ニペルナーティは勢いづいて答えた。「で、ニペルナーティ爺さんは、そこでダンスができるかも、漁に出る前にね」

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'Pearl Diver' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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