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[エストニアの小説] 第3話 #2 エロ (全10回・火金更新)

#1を読む

 すぐに、ニペルナーティはいそいそと仕事に取り掛かった。牛小屋や納屋、穀物倉のまわりをうろついて、作男たちと仲良くなり、女の子一人一人にいいことを言ってまわった。お嬢さんのエロの部屋にだけは、この男は入る勇気がなかった。半分開いたドアの前で長いこと立っていたが、やがてそこを立ち去った。

 ニペルナーティは面白おかしい男で、子どものように恥ずかしがり屋でもあった。眉毛は草むらのように伸びて、大きな目をおおうほどだった。

 日が沈むと、ニペルナーティは外へ出ていった。畑の間の小道を歩き、花を摘み、口笛を吹き、幸せいっぱいだった。この男にはどこか美的センスがあり、天真らんまんでもあった。雲を見ては、心揺さぶられていた。森の中に入っていき耳を澄ませた。と、何か大切なことを思い出そうとしているかのように、海に向かって走っていき、うねる波間に小石を投げるのだった。そして何時間でも同じ場所にすわっていた。真夜中近くになってやっと、ゆっくりと家に向かって歩きはじめた。

 教会へつづく道の途上で、ニペルナーティはエロと出会った。
 「わたしからご挨拶を送ります、お嬢さん!」 そうニペルナーティは言い、帽子に手をかけた。ぎごちなく突っ立って、それ以上何と言うべきか探した。
 「あなたは家の新しい働き手でしょ」 エロが尋ねた。
 「そんなところです」とニペルナーティ。「今日、着いたばかりなんです」 そう言って笑顔を見せた。
 そして唐突にニペルナーティは話しはじめた。「見て、見てくださいよ、春の宵の星々が空でこんなにも煌めいているとは!」 身振りで星を示しながら、そう声を上げた。「それについてお話ししてもいいでしょうか? 春の森は鳥たち、花々でいっぱいです。クサリヘビも芝の上を徘徊してますよ。その目をすごく近くで覗き込んだことがありますか、お嬢さん。そして月は木々の上に、黄色いピエロが紐で吊るされたみたいに、ぽっかり浮かんでます。そしてウワミズザクラがもう、花を落としはじめました。その下に寝そべれば、あなたは雪のように白い花びらに覆われ、埋まるでしょう。北国では春がひとたび燃えたてば、一気に世界は色に覆われます。突風に打たれたように突然、氷の覆いが割れて、何千という花々の色が森や牧草地にばら撒かれます。木の幹や枝もそれに覆われます。昨日、太陽がすすけたランプみたいに低く昇っていたと思ったら、今日、雪は海に消えていき、森はチュンチュン、ピーピーと鳥たちの声でいっぱいになります。それは人間も同じです。春がやって来れば、変わらずにはいられません」 そう言い終わると、ニペルナーティはエロにグッと近づいた。

 「よそ者にしてその図々しさは何?」 エロはむっとして言った。
 「すみません!」 ニペルナーティはそう言って後ずさりした。「本当のことを言うと、わたしは農夫じゃないんです。鋤の持ち方も知りません。わたしは仕立て屋なんです。壊れかけた脱穀機がたらい回しにされるみたいに農場から農場へと渡り歩く、村の仕立て屋ですよ。あー、自慢するわけじゃないですけど、ズボンに上着、ときにコートもね。わたしなりのやり方でなんとかやってます。でも春が来ると、仕事場を出て草原や湿地を歩きまわります。じっとしていられないんです、だからツィターを弾いたり、口笛を吹いたり、陽気な風来坊みたいにお天道様の下を歩きまわるんです」
 するとエロはこの男を蔑(さげす)みの眼差しで見た。
 「くだらない嘘ばかり言って」 ずけずけした口ぶりでエロが言う。

 「見てくださいよ、剣で切り裂いたみたいに、星が空を真っ二つにして落ちてくるところを」とニペルナーティはエロの手をつかんで言った。しかし次の瞬間、その手を離すと悲しげにこう言った。「嘘? すみません、わたしは大ボラをつい言ってしまうことがあって、なぜなのか神様はご存知です。あー、わたしはいったいどんな仕立て屋だっていうのか。ちょっと言いすぎたみたいです。実際のところ、針に糸を通すこともできないし、ズボンやコートを作るなんて考えたこともない。わたしは海の男ですよ、貧しい漁師です。ニシンを捕って自分で食べ、あまったものは市場に売りにいってタバコを買ったりウォッカを一杯やります。もしわたしが農夫であったなら、きっと聖餐式のために牧師のところに行くでしょうね。そうしたら、お嬢さん、あなたはわたしに優しい言葉をかけてくれます? あなたはあの牧師の妻になるんでしょう。あの人はとても良い男であると言われていますが、ただ歩き方がちょっとみすぼらしく、笑うということを知りません」

 「おやすみ!」 エロが突然言った。「あなたとおしゃべりをする気分じゃないの、今は。わたしはここから一人で家に帰るから」
 ニペルナーティはびっくりして、口を閉じた。帽子を脱いで手に取ったけれど、一言も発しなかった。エロは急ぎ足で長い三つ編みを揺らしながら去っていった。残された男は、帽子を手に、長いことそこでじっと立っていた。
 そしてニコリとすると、家へと急いだ。歩くというより駆けていた。農場の敷地に着くと、ニペルナーティはトゥララが眠っている納屋の戸口のところに腰をかけた。そしてドアをノックした。

#3を読む

'Pearl Diver' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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