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[エストニアの小説] 第2話 #7 出発 (全12回)

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 ヨーナタンが出発すると、農園に残された者たちに耐え難い待つだけの日がはじまった。猿とヨーナタンの旅のこと以外、なにも話題はなかった。ペトロはカレンダーで祭りのある日を確認し、そこに旅の計画を入れていった。パウロはあちこちの権限ある人に申請書を書いた。とはいえ、二人の頭には猿のことしかなかった。何日か過ぎたが、ヨーナタンは戻らなかった。
 「あのバカは、酒におぼれてんだ。居酒屋で金を散財してるんだろうよ。自分の役目のことなど忘れてな」 パウロはそんな風に疑いをかけた。
 「何か問題が起きたか、事故にでもあったのかもな」 ペトロがむっつりと言った。
 ニペルナーティは猿に関してまったく興味がないように見えた。神様とともに日々を過ごし、ミーラの小屋でおしゃべりをしたり、おいぼれ爺さんと釣りをしたり、牧草地や森を歩きまわった。ツィターを手に取って、つまびき、歌い、光あふれる素晴らしい日々を与えてくれる天の神様に賛辞を送った。パウロがいらだちを見せると、ペトロは悲しげな表情で、物事がいかに進んでいるか、あれこれ仕事を進めたり、農園の世話をするかについてこんこんと弟に言い含めた。するとニペルナーティがぷいと膨れて、苛立たしげにこう言い放った。
 「君らがまだここにいて、わたしに何ができる? 女性が一人必要なのに、獲物を漁る熊みたいな独身男どもがうろついていたら、誰がここにやって来る?」

 ペトロはその答えに満足して、パウロの愚痴に注意を向けなくなった。

 ある日、兄弟とニペルナーティが芝の上で寝ころがっていると、突然、ヨーナタンが嵐のような勢いで庭に走り込んできて、こう叫んだ。「積荷と馬の用意はできてるか? すぐに出発だ!」
 2兄弟は飛び起きて、ヨーナタンの方へと走った。ヨーナタンの腕には小さな猿が抱かれていた。猿は長旅のせいで生気をなくし、震えおののいていた。赤い小さなキャップをかぶり、その首にはロープが巻かれていた。
 「やっと手に入れた、手に入れたんだ!」とヨーナタンは兄たちに大事な生き物を見せながら、自慢げに言った。「だけどいろいろあったんだ、それを話すよ」
 「なんでこんなに時間がかかったんだ?」 パウロが問いただした。
 「うん、ラトビアまでの旅は簡単なものじゃなかった」 ヨーナタンが説明をする。「その場所を見つけて、地獄の淵から当の聖職者を引き出すのに、大変な時間探しまわらなくちゃならなかったんだ。兄さん、話して聞かせよう。キリスト教徒が会うことのないような冒険と不運があったんだ」
 しかし誰ひとり、ヨーナタンの話を聞きたくなどなかった。ヨーナタンが抱え、指を小さなからだに食い込ませている猿、そっちにみんなの関心はあった。ペトロでさえ、美しく大切なものでも扱うように、猿の頭を優しく撫でた。
 「なんて名前にしたらいいかな」とパウロ。
 「ミカ。オレはミカって呼んでる」 ヨーナタンがほがらかに言った。「違う名前だったんだけど、難しくて忘れてしまった」「そりゃ、かわいいな」とペトロが笑顔で言った。
 「金貨で50ルーブルもしたんだ!」 ヨーナタンがさらに言った。「いまいましい牧師とさんざん言い合ったが、あの黒衣の野郎は聞こうとしない、ほんのちょっとも値段を下げないんだ。ミカはあいつの息子みたいなものだった、って言う。大変なことが起きて、お金に困って猿を売るしかないというわけだ。オレに何ができる? どうしようもないだろ。オレはテーブルの上で金貨50ルーブルを数えて奴に渡して、猿を手にした」

 そこにいた者だれも、値段について口にしなかった。と、そこで兄弟は誰かがこの大事な宝物を見ているかもしれない、そう気づいて家の中へと急いだ。3兄弟は猿を囲んで座り、その日一日、幸せな気分で過ごした。ヤンガも牧草地から呼ばれてやって来たので、この可愛らしい生き物を見ることができた。

 夕方になると、3兄弟はサウナに入り、髭を整え、パウロはうずく片足を吸い玉療法で癒し、みんな一斉に日曜日の外出着に着替えた。すべての準備が整うと、もう一度カレンダーでどの村や町で年に一度の祭りがあるかを確認した。そしてニペルナーティ、ヤンガ、農場の家畜たち、さらには犬たちにまで心からのさよならを言い、3兄弟は積荷の上に座り、歌いながら出ていった。ヨーナタンは一番はじけていて、子豚が捉えられたみたいにピーピーキーキー騒いだ。しかしパウロは父親の農場の屋根や煙突が見えている間は、帽子を手の中にとどめようと誓っていた。

 3兄弟の旅は秘密裏に行われたが、その日の夕方には村じゅうの者に知れ渡っていた。次の朝、プースリクはニペルナーティに直接話を聞こうと、クロードゥセ農場に息急き切って駆けつけた。怒り心頭のプースリクはドアを勢いよく開け、部屋の真ん中に仁王立ちになり、杖を振りまわしながら震える声で質問した。「ノギギガスのやつらが、祭りをうろつきまわるために農場を出ていったというのは本当か。公衆の前で道化をやって、ふしだらで無価値なことで金を騙しとるってのは。これが本当なら、ニペルナーティさんよ、あんなならず者のやることを観にくる人がいると思うかい? それで金を稼ごうっていう3兄弟に金を使うやつがいるのか? 神にかしずくキリスト教徒の顔に泥を塗るようなもんだ。銃を持った大酒飲みがうまくやるなんてことがあるなら、教会という教会は荒れ果て、最も信仰深い信者もナイフを口にくわえ、手には石をもってやって来るだろうな。ノギギガス兄弟の商売が繁盛するなんてあり得ない、この世の法と秩序の終わりだ。それとも、ニペルナーティさんよ、あの兄弟は実は馬を盗むために祭りに出かけたってことで、すぐにでも警官や役人に通報されるべきじゃないのか?」

 ベッドに寝たまま、プースリクの長々とした弁舌を聞いていたニペルナーティは、だるそうに起き上がった。
 「いや、お隣りさん」 ニペルナーティは厳粛な面持ちで答えた。「3兄弟は高潔な心をもって出かけていったんです。彼らが商売で儲けるかって? そうだな、天に神様がいるのと同じくらい確かでしょう。百万長者になって帰ってくるのも時間の問題で、そうしたら我々は右足を後ろに引いてお辞儀をし、3 兄弟の前で身を震わせることになる」
 「わたしは頭など下げんぞ!」 プースリクは怒り、頭をグッと引いた。
 「そんな風に豪語するもんじゃない」とニペルナーティがたしなめた。「金というのは大変な力をもっている。3兄弟が金を手にするのは間違いない。その金であらゆる農場を家畜から何から中身ごと買い占めるかもしれない、うん」
 「そんなことにはならん、天に神はちゃんといる!」 プースリクは十字を切り、声を荒げた。

 ニペルナーティはプースリクが牛舎の後ろに素早く駆け込むのを目で追った。そこにはマディス・シルケル、ミク・トラマー、その他の男、女たちが待ち構えていた。プースリクがそこに現れると、全員がこの男に飛びついて、ペチャクチャワーワー騒がしい声をあげた。
 かなりの長い時間、彼らはそこで声を張り上げ怒りを露わにしていたが、ニペルナーティはそれを聞く気分ではなかった。そしてミーラのいる方へと駆けていった。

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'Toomas Nipernaadi' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku


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