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[エストニアの小説] 第2話 #8 農場 (全12回)

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 「ミーラ、聞いてくれ」 ニペルナーティは悲しげな声で言った。「君がわたしに手を貸してくれるなら、今がそのときだ。さもないとすごく良くないことが起きそうだ。わたしがこの廃墟みたいな農場を買い取るなんて、とてつもなく馬鹿げたことだった。どうしたらいいんだ? 白状すれば、わたしは農業のことも畑のことも何にも知らない。わたしの職業は靴の修理屋だ。いろんな靴を修繕したり、ときに新しい靴を作ったりもする。わたしの仕事は机の前に座って、おでこに明るい電球を付けて忙しく立ち働くことだ。ところが今や、全能の神よ、あの馬鹿たちはわたしを農場に残していった。いったいどうしたらいいんだ? 鋤の使い方も知らない、雄牛と雌牛の区別さえつかない。家畜を弱らせ、馬を死なせてしまうかもしれない」
 「あー、ミーラ、腹の減った豚がキーキー鳴き叫ぶのを聞いたことがあるかい? わたしは家の中に逃げ込んで、枕の下に頭を埋め、羊皮のコートを上にかける。でもまだキーキーいう声は聞こえてくるんだ、わたしの耳のそばに鼻面をくっつけてるみたいにね。いいかな、わたしの豚どもは小屋で鳴いてる、でもわたしは君なしでそこに行くことはできない。教えてほしい、わたしはどうしたらいい、何をするべきなんだ?」
 「じゃあ、どうして農場なんか買ったの?」 ミーラが聞いた。
 「そういう馬鹿な質問を人はときにするもんだ」 ニペルナーティは苛立たしげに言った。「どう答えていいかわからないくらいのアホだ。子どもというのはそういう質問をすることがある。母さん、なんで猫は猫の子だけ産むの、ゾウじゃなくて。猫がなぜゾウを産まないか、なんでわたしが知ってなきゃいけない。ゾウを産むことだってあるさ、ほんのまぐれで。なんで私が農場を買ったか、なんでわたしがここのならず者たちに、自分の蓄えを恵んでやるかなんてどうしてわかる。ほら持っていけ、何もかもだ、これが貧しい靴職人の血と汗だ、これがこの男の人生を賭けたものすべてだ、みたいにね」

 すると、どうしたことか突然、ニペルナーティの態度は優しく、好意的になった。
 「ごめん、ミーラ」と穏やかに言った。「わたしが農場を買ったのには、ちょっとした動機があったんだ。本当だ。うん、嘘じゃない。本当のことだ。いいかい、湖のそばの小屋に女の子が住んでいることを考えていた。もしわたしが農場を買って、その子に一緒に住まないかと聞いたら? その娘はきっとやって来る、そして神の子みたいにわたしたちは暮らす、楽しく、平和な暮らしだ。靴職人がどうして小さな幸せをもってはいけないんだ、と考えた。そいつは充分苦労したし、厳しい暮らしをしてきたんだ。そしてこうも思った。時が熟したら、女の子にこう言う、その愛する子にだ、日曜日の服を着て、牧師が何をしているか、何をしようとしているか、見にいこうとね。たぶん牧師はわたしたちを受け入れてくれて、わたしたちに言葉をかけてくれる。これが農場を買ったとき、貧しい靴職人が考えていたことだ」
 ミーラはそんなことを言う男をじっと見つめ、顔を赤くし、恥ずかしそうに大きな目を下に向けた。
 「あなたは不道徳な考えをもってる」 ミーラが静かに言った。
 「どういう意味だい、不道徳とは」 ニペルナーティが驚いて訊く。「わたしが君にふさわしくない、ということだね。それともミーラには他に好きな人がいるのかな」
 ミーラは唐突に椅子から立ち上がると、部屋の隅へ逃げ込んだ。
 「ちがう、ちがうの!」 泣き声をあげながら、ミーラは必死で言った。
 「そうなの、本当に?」 ニペルナーティは尋ねた。
 突然、ニペルナーティは真面目になると、長年日に晒されつづけた顔を歪め、部屋の中央に立って、帽子を手にそこから出ていこうとした。
 「さよなら、ミーラ。もう二度とここには来ない、君を煩わせたりしない」 そう言った。
 しかしニペルナーティが小屋を出ていくと、ミーラはその後を追った。そしてニペルナーティを捉えると、立ち止まり、黙って目を落とした。
 「何か言いたいんじゃないのかい?」 ニペルナーティが訊いた。
 「うん」 ミーラが小さく答えた。「あたし、あなたの農場に行く。だけどさっきみたいにあたしに、二度と言ってはいけない」
 そう言うとミーラは家に向かって走っていった。

 「あの子は来る、あの子は来る!」 ニペルナーティは声をあげた。ニペルナーティはもう待ちきれない気持ちと喜びで一杯だった。小さな男の子みたいに森を走り抜け、木のまわりをクルクルまわり、花を摘み、口笛を吹いた。何構うことなく、笑い、歌い、幸せいっぱいだった。それからヤンガが牛の世話をしているハンノキの茂みへ走り込んだ。
 「聞いてくれよ、ヤンガ」 ニペルナーティは上機嫌で声をかけた。「なんだかわかるかな? あしたこの農場に新しい女主人がやって来る!」
 「誰だい?」 ヤンガが訊いた。
 「ミーラだよ!」 ニペルナーティは意気揚々と答えた。
 「あー、湖のところの女の子か?」 ミーラが自分の妹とは気づいてないかのように、ヤンガはがっかりして言った。「喜ぶ理由はないね。あいつが前の女主人よりいいとは思えない」
 「あの子はキツイのかい?」
 「どれほどか!」 ヤンガがきっぱりと言った。「あー、神様、預言者よ、皮剥ぎとメチャ打ちがまたはじまる」
 ヤンガは心の底からがっかりして唾を吐いた。そしてライ麦畑に入っていく牛の後を足を引きずりながら追っていった。

 次の朝、ミーラが農場にやって来た。前の女主人のベッドの上に持ってきた荷物をポンと投げた。そしてすぐに働くために出ていった。毎日、ミーラは農場にやって来て1日中働いた。ニペルナーティはそばを走り抜けるミーラを目にとめるだけだった。夕方になって農場の仕事が終わると、ミーラは急いで家に向かい、父親の世話をし、夕飯をつくった。そして少しの間、ベッドで休むと、次の朝また農場にやって来た。ニペルナーティはミーラを捕まえようとしたが、その脇をすり抜けた。まるでクルクルまわる火花の先っぽだ。ニペルナーティはただ座ってそれを見ていた。ついにニペルナーティもそのままでいられず、仕事に手をつけはじめた。悪態をつき文句を言い、それでも夜明けから日が暮れるまで外で働いた。
 「いい仕事を見つけたはずだったのに!」 ため息をついてそう言った。何日かたったが、3兄弟からは何の便りもなかった。

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'Toomas Nipernaadi' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku


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