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[エストニアの小説] 第2話 #1 風来坊 (全12回・火金更新)      

「ノギギガスの3兄弟」は、アウグス・ガイリの短編連作小説『悪魔の舌をもつ天使』の第2話です。主人公のトーマス・ニペルナーティは全7話すべてに登場し、それぞれの村で騒動を巻き起こします。
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Original text by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

 口笛を吹き、上機嫌で男は土ぼこり舞う道を歩いていた。
 森の中の三日月湖の土手で夜を過ごし、太陽が昇ると焚き火を足で踏みつけ、残り火を蹴散らし、また歩き始めたのだった。男は別に急いではいないし、目的地があるわけでもなく、ちょっとした変わり者だった。ときどき足をとめて、変わる景色の素晴らしさに茫然とし、鳥の鳴き声を真似たりした。とにかく陽気でご機嫌だった。湖のそばで足をとめ、草の上に横たわり、青空に浮かぶ白い雲を何時間でも見ていることがあった。

 男は背が高く痩せていた。大きな瞳は喜びに満ちていた。自分のことを「トーマス・ニペルナーティ」と呼んでいた。興味深げに寄ってきた人が何か尋ねると、大きく笑って、このあたりがどんな風なのか、ただ見て歩いているだけなんだ、と答えた。歩いていて疲れると、男は道端に座ってツィターを弾き歌をうたった。が、その声は金切り声のようで、聞き苦しいものだった。そしてまた立ち上がると、目の前の風景をじっと見つめた。乾いた草原から土埃が舞い、ずっと向こうの地平線を見ると、燃える沼から煙があがっていた。熱気を帯びた陰気な森がヌッと現れる。

「ヴィリャンディからタルトゥへ」(エストニアの画家・Konrad Mägi:1978 - 1925)

 クロードゥセ農場の主、未亡人リース(晩年に連れ添った夫の苗字はノギギガス)に死が訪れようとしていた。何が起きたかといえば、牛飼いのヤンガが昼寝のさなかに奇妙なゴロゴロいう音を耳にしたので、眠い目をこすって見にいくと女主人が死の苦しみの中にいた、というわけだ。驚き震えながら、じっと女主人を見ていたのだが、突然、彼女の胸が沈み、あごががっくりと落ちたので、ヤンガは風に飛ばされたみたいにすっ飛んでいった。

 「ご主人が地獄から来たやつに連れていかれた!」 喜びと解放感に満ち満ちて、ヤンガは大声をあげた。芝の上で大口を開けて寝っ転がっていた死んだ女主人の3人の息子が、パッと起き上がると、互いを困ったような顔で見つめ合った。
 「あいつは何て言った?」 長男が口を開いた。

 この息子たちは母親の死を来る日も来る日も待っていた。決して見舞うことはなかった。何度も何度も、牛飼いは家の中に送られて、病人の具合はどうか、何をしているか報告させられた。牛飼いは見に行って、様子を観察し、残念そうに何も期待するようなことは起きてないと報告した。このお方はまだ世を去る準備ができていない、と。すると息子たちは芝生にまた寝転がり、雲を眺め、あくびをし、辛抱強くよい知らせを待った。
 息子たちは死ぬこと以上に自分たちの母親を恐れていた。死んだ女主人は恐るべき人物だった。言うことをきかない息子には、バチンと重い拳がふるわれた。畑を休ませていたり、作物を収穫しなかったり、家畜を放りっぱなしにしたりと、息子たちが日々を無駄に過ごし、森に狩りに行ったり、湖に釣りに出かけたり、村の踊りで遊んでいたり、喧嘩でナイフを振りまわしたりすれば、この女主人はどんなことをしてみせたか。

 息子たちはコウノトリが冬を逃れるように、農園の仕事から逃げていた。怠け者にして口達者だった。

 死んだ教区委員の父親は、家と教会の間を行き来する人生で、聖書からとった名前を息子たちに適当につけた。それで長男はペトロ、次男はパウロ、三男はヨーナタンとなった。

 「ほら、みろよ、ユダヤの3兄弟が全力でこっちにやって来るぞ」 村の子どもたちは3人を見ると、そう騒ぎたてた。3人の息子たちはこん棒や猟刀を手に、自らの名誉を守るしかなかった。その後には、何週間でも傷が癒えるのを待つ、という言い訳がいくらでも見つかった。母親の目を逃れると、不平たらたらため息をつき、屋根裏部屋でぐずぐずと過ごすのだった。そんなときヤンガは彼らの唯一の支援者となった。ヤンガは兄弟の隠れ家にパンや肉を運んだ。しかし母親に見つかると、大変なことになった。村じゅうに兄弟の泣き叫ぶ声と母親の罵倒が鳴り響いた。というわけで女主人は自ら農園の仕事に手を下すか、農夫を雇うしかなかったのだった。

 そして今、母親が死に、3兄弟は恐怖に襲われた、どうしていいかわからなかった。しばらくの間、この状況について3人は考えを巡らせた。
 「おいヤンガ、ちょっと聞け」 長男がとうとう口を開いた。「いいか、いい考えがある。近所の人たちのところに行って、おれらの災難をふれまわるんだ。でもな、アンポンタン、うまくやるんだぞ。そうすれば村の人たちは、おれらが今いい気分でいるとは思わないだろう。やつらに言うんだ、おれたちが雷に打たれた雄牛みたいに悲しみで伏せっているとな。ため息をつくばかりで、何もできないとな。泣きに泣いて地面に頭を打ちつけてる、とな。で、すぐにでも来てくれないと、不運な母親と同じ目におれらも会うだろう、って言うんだ。ほら、走っていけ!」

 ヤンガは草地を風のように走っていった。こんな重要な役目を任されて感激し、その胸は誇りでいっぱいだった。興奮して農場から農場へと走りまわったものの、故人の死の報告を長々とやっている余裕はなかった。バタンとドアを開けてこう叫んだ。「リース・ノギギガスが死んだ。すぐ見に来てくれ!」 そしてドアをバタンと閉めて、また次の農園へと顔を赤くして走っていった。

 ヤンガが道に走り出ると、トーマス・ニペルナーティと出会った。
 「リース・ノギギガスが死んだ。行って見てくれ!」 ヤンガはニペルナーティにも同じことを迷うことなく言った。
  ニペルナーティは立ち止まると、牛飼いのヤンガをじっと見た。
 「イナヅマくん、ちょっと待て」 ニペルナーティはにっこり笑った。「ちょっと立ち止まって教えてほしい、リース・ノギギガスって誰なんだい?」

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