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[エストニアの小説] 第2話 #2 ミーラ (全12回)

#1を読む

 「おれ、時間ないんすよ」 牛飼いのヤンガは真面目くさって言ったものの、道端のニペルナーティのそばに座りこんだ。
 「あんた、あの魔女を知らないってか?」 そう驚いて尋ねた。そしてこう続けた。「ああ、神様、聖なる預言者よ。あの人は人間ながら角がある女だった。みんな死ぬのを待ってたんだ。でもなかなか死のうとしなかった。往生する前に、キーキー、キューキューッと声をあげた。あの女は獰猛で怒りの塊だった。あの女に指さされたら、一巻の終わりだ。あいつは竜巻みたいに農場をくるくる回ってた。で、おれたちはてんでバラバラに飛んでいく。森に逃げる者、水路に逃げる者、屋根に登っていく者とな」
 「それはそれは」とニペルナーティ。「その<おれたち>っていうのは誰のことなんだい?」
 「おれと3兄弟だよ、他に誰がいる?」とヤンガが返す。「おれ、ペトロ、パウロ、ヨーナタン」
 そこからヤンガは知っていることをすべて話し出した。死んだ人のこと、3兄弟、農場とその周辺のこと、従兄弟たち、近所の人たち。すべてを話したと思ったとき、ヤンガは自分のやっていた重要な役割を思い出した。そしてヘビにでも噛まれたように、飛び上がった。
 「ああ、神様」 ヤンガは恐くなって服の袖で口をぬぐい、声をあげた。「ああ、もうおれ行かなくちゃ。でもあんた屍(しかばね)を見に行くんだよ。いいかい。兄弟は何一つ自分でできない。稲妻に当たった雄牛みたいになってる。あいつらの死もそう遠くはない」
 ニペルナーティはちょっと考えて、ニヤリとし、まわりを見まわし、それからクルートゥセ農園に向かった。

 ニペルナーティが農園に着くと、3兄弟はまだ芝の上にすわって、黙って互いの顔を見合っていた。ニペルナーティはツィターを壁に立てかけ、帽子を手にとると、みんなに挨拶をし、握手した。そして悲しげに「神さまのご加護を、みなさん。不運に我々はみまわれた」と言った。

 「不運か、そうだな」と長男が兄弟を代表して答えた。「どうしたものか、わからないんだ。おれたちの母親は突然死んだ、急にだ。誰に予想できただろう。もしかしたら鐘打ちと牧師には知らされるのかもな。それで正式な手続きとか、そいつらがやるんだろう。でもあのアホのヤンガは戻ってこない。牧師のところにでも行かされたんだろうか」
 「お任せください、私どもがすべて処理しましょう」 ニペルナーティが励ますように言った。
 ニペルナーティを先頭に、おずおずと3兄弟がその後につづいた。家の中に入ると、ニペルナーティは死んだ人の寝室の前で立ち止まり、くちびるだけ動かして、静かに祈りを捧げた。そして死人のまぶたを閉じた。それからベッドとそのそばの引き出しを注意深く調べた。シーツの下に、農場の書類と札束があるのを見つけた。書類を長男に渡し、それからお金を注意深く数え始めた。金額を兄弟に知らせ、引き出しの中にそれをしまい鍵をかけた。そしてその鍵を、とりあえず自分のポケットに入れた。それが終わると、外から板を運んできて長椅子の上に据え、3兄弟の手を借りて、死体をその板の上に乗せた。

 「次は女性たちの仕事だ」とニペルナーティ。
 すぐに部屋は女たちで埋まった。最初、女たちはため息をつき、めそめそと泣き、死者のまわりを、まだ息のある動物を取り巻くカササギのようにぐるぐると歩いた。と次の瞬間、死体に取りつくとすぐさま仕事に取り掛かった。お湯が沸かされ、箪笥からきれいな服が取り出され、すぐに女主人の死体は、洗濯物のように女性たちの手でこすられ、磨かれた。
 ニペルナーティはここの一員であるかのように、仕事の指揮をしていた。棚の中にウォッカがあるのを見つけると、自分でまず飲み、女たちにも少しやった。そしてその仕事ぶりを称賛した。それから外に出ていった。

 ニペルナーティは湖の方へと急いだ。夕闇が迫り、太陽が赤く染まっている。空気は青さを増していた。太陽光線は靄(もや)の中を通ってくるように見えた。湖の上に赤い染みができた。そこに飛び込む白鳥のように、雲がその上に影を落とした。ニペルナーティは岸辺に行ってそれを眺めた。魚が慌ただしく水から出たり入ったりしていた。

 と、突然、ニペルナーティは女の子の叫び声を耳にした。パッと立ち上がると、声のする方へと走った。
 「クサリヘビだ、クサリヘビだ!」 裸の女の子が、水から上がりながら叫んでいた。
 ニペルナーティはショールを拾って少女の肩に投げると、その子を岸に引き上げた。
 「叫ぶんじゃない、バカだなぁ。クサリヘビは水の中で噛みついたりしない」
 女の子は見知らぬ男を不安げに見つめた。濡れた髪が裸の肩にかかっていた。頬や赤い唇にポタポタと水が落ちていた。少女はバツが悪そうに、あたりをウロウロした。ニペルナーティはその子の濡れたくちびるを袖でぬぐってやった。そして岸辺にあった少女のシャツと擦り切れたエプロンを放り投げ、こう言った。「恐がらなくていい。わたしは悪いやつじゃない。よそ者だけどね。わたしの家はずっと遠くにある、森や草原を超えたずっと向こうだ。わたしは旅をしてて、偶然、従兄弟の葬式に迷いこんだ。きみの名前は何ていうんだい?」
 「ミーラ」 少女は恥ずかしそうに答えた。
 「驚かなくていいからね、ミーラ。友だちになろう」とニペルナーティ。
 少し離れたところに、小さな漁師の小屋が見えた。それは泥と藁で作られた家で、大きな屋根が乗っていた。小さな煙突からは煙が上がっている。少女は不安げにそっちを見た。

#3を読む

'Toomas Nipernaadi' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

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