見出し画像

子狐コンの恋

ぼくはある気持ちのいい春の日に山の中の草原で生まれた。
お母さんは白い毛並みが綺麗な狐で、お父さんはちょっとぼんやりしているけどやる時はやる体の大きな狐だ。

ぼくはこの自然豊かな森ですくすくと育っていた。
ある日ぼくは田んぼの周りで遊んでいて、うっかりお母さんから離れてしまった。
どうしようかとうろうろしていると、前の方から銀色の四角いものがやってきた。
そいつはぼくの目の前で止まると、ぼくの方に向かって何か四角いものを向けた。
その銀色のものの中には髪が半分白くなった男の人と、まだ髪が黒い女の子が2人で乗っていた。
女の子が僕に四角い板を向けて何か話していた。
それに対して男の人が何か頷きながら言っているのを見た時、お母さんの
「何してるの!早くこっちに来なさい!」
というかん高い叫び声が聞こえた。
その声でハッと我に返ったぼくは近くの草むらに駆け込み銀色のものから離れた。
その後、その銀色のものはゆっくりと立ち去りぼくはお母さんにこっぴどく叱られた。
叱られながら僕は女の子のまんまるな目と、大きく広がった笑顔が忘れられずにいた。

あれから数日が経ち、女の子の顔が忘れられなかったぼくは、もう一度匂いを辿って銀色の車があるところまで行ってみた。
そこには木でできた大きな家があって、そこに女の子と男の人は住んでいた。
ぼくは草の影からしばらく家の中の女の子と男の人を見ていたが、女の子は男の人とご飯を食べていたと思ったら、急に黙り込んで家の外に出てきた。
そしてしゃがみ込んで目から水を出し始めた。
時々カエルのような声を出しながら、女の子は水を出し続けた。
ぼくはその間ずっと一緒にいたが、女の子はぼくに気がつく様子はなかった。
女の子はしばらく水を出すと、水を拭いて笑顔を一つ作り家の中に入って行った。
ぼくはその様子を思い出しながら家に帰った。

その後も何日か続けて彼女の家を見に行ってみた。
すると毎回女の子は家の外に出て水を流し続けていた。
男の人の方は水を出していないのに、女の子の方は毎回水を出している。
いよいよ不思議に思ったぼくは家に帰ってお父さんに聞いてみた。
「あの子は何で水を流しているの?」
お父さんは、
「さあ、何でなんだろうな」
とわからない様子だった。
そこでぼくはお母さんに聞いてみた。
「あの子は何で水を流しているの?」
するとお母さんをこう答えた。
「あれは人間がする「泣く」ということをしているのよ」
「なく?」
「そう。人間は悲しい時、嬉しい時、いろんな時に「泣く」ということをするの」
「どうして「なく」をするの?」
「さあ。私もなぜそれをするのかわからないわ」
とお母さんは答えた。
そうか、女の子が「なく」ということをしているのは分かったが、今度はなぜ「なく」をしているのだろうかということが気になってぼくは何でも知っている銀のお星様に聞きに行ってみた。
「ねえ、銀のお星様。あの女の子はなぜ「なく」をしているの?」
お星様はこう答えた。
「あの子はね、とても悲しくて泣いているの。あの子は学校の勉強も家のお手伝いも何でもとても頑張ってきた。
でも、あの子は初めてどれだけ頑張ってもかなわない壁に突き当たったの」
「壁?なんだったの?」
「それはね、失恋というものよ」
「しつれん?」
「そう。人間は恋というものをするわ。
あなたたち動物は子どもを作るために集まり、子どもが育ったら離れて行くからわからないかもしれない。
けれども人間というのは面白いもので、好きという感情が生まれた人とずっと一緒にいるの。
たまにそれが変わることもあるけれども、多くの人はその好きという気持ちをとても尊いものとして見ているのよ」
と言いながらお星様はお空にすうっと溶けていった。
ぼくは好きってなんだろう、と思いながら白くなる空を見ていた。

・・・・・・・・・

それから1年が経った。
僕は1年の間に立派なオスの狐に成長した。
彼女も何人かできた。
でもあの泣いている女の子を忘れることができなくて、いつもすぐに別れてしまっていた。

僕はその間も彼女の家を訪ね続けていた。
彼女はその間も毎日泣き続けていて、その涙は止まることがなかった。
僕はどうにか泣き止んで欲しくて、道に落ちていた可愛いハンカチやお花や木の実なんかを彼女の家の前に置いた。
それは多くの場合、お父さんか彼女に見つけられ、不思議な顔をしながら家の中に持って入られた。
大人になった僕はこれが恋だと気が付いていた。
僕はずっと前から彼女に恋をしていた。
でも彼女は僕がどれだけプレゼントをしても一向に泣きやまない。

どうしたら彼女に気付いてもらえるのか?
どうしたら彼女と一緒にいられるのか?

もどかしくなった僕は銀のお星様に相談しに行った。
一月に一度だけ出るお星様は僕を見て微笑んだ。
「久しぶりね。子狐コン。最近はどう過ごしているの?」
「お久しぶりです、銀のお星様。
僕は恋をしているのです。
あの子はなぜ1年も泣き続けているのですか?」
「そうですね……。あの子は1年前に別れた恋人を想い続け、大変辛い思いをしているのです」
「1年間も想い続けているのですか?
僕たちは1年の間に子どもを作ったら、すぐにその相手のことは忘れてしまいます。
毛並みが良かったなとか、上手に子育てしてくれたなとは思い出しますが、それ以上想ったりしません。
人間というのはそんなにも同じ人を想うものなのですか?」
「そうですね。時折人はそうしたことをします」
「あの子は何が悲しいのですか?」
「………あの子は寂しいのです。
ただただ恋人がいなくなった後、ひとりぼっちで生きるのが寂しいのです」
「寂しい?」
「そうです。
コンは誰かがいなくなった時に寂しいと思うことはありませんか?」
「……う〜ん、お父さんもお母さんも、友達も誰もいなくなっていないので分かりません」
「寂しいというのはいなくなって分かったりもすることもあるのですよ」
「そうなんですね」
と言い、僕はふと女の子がしゃがみこんで「死んでしまいたい」と言って涙を流していたのを思い出した。
「寂しいと死んでしまいたいと思ったりするものなのですか?」
銀のお星様は、少し考え込んでこう言った。
「あの子は今希望を見失っています。人は希望が見えなくなった時に自ら命を絶つことがあります。
これはとてもとても悲しいことで、私たちもできるだけ減らしたいと思って見守り続けているのですが、やはりなくなりはしません。
自ら命を絶つのは最も愚かなことなのに、思い詰めた人はそれがわからなくなってしまいます。
人は強くて弱い。だから支え合っていくのです」
最後は独り言のようになりながら、銀のお星様はそう呟いた。

次の日僕は相変わらず泣いている女の子を見ながら考えた。
「人間は馬鹿だ。恋人なんて一人じゃないし、また探せばいいのに、愛という枠はめて生きている。自ら自分を苦しめて、大事な一生を無駄にしている人間は愚かだ」
そう思いながら、じっと彼女を見ていると一番最初に会った時に見たまん丸の笑顔が思い出された。
「あれがあの子の本当の笑顔だ。僕があの子の本当の笑顔を引き出したい」
そう思い僕はその晩、また銀のお星様を尋ねに行った。
「銀のお星様。お願いがあります。あの女の子と話をすることはできるでしょうか」
銀のお星様は一瞬驚いた顔をしたが、その後いつもの笑顔に戻って言った。
「ええ、できますよ。ただし一つ約束事があります」
「約束事?」
「そうです。あなたは一度だけ人間になって彼女と話をすることができます。そして一つだけ彼女の願いを叶えることができます。
ただし、一度人間になったらあなたは二度と口はきけなくなり、目も見えなくなり、匂いも嗅げなくなり、耳も聞こえなくなります。
それでも彼女と話がしたいと思いますか?」
僕は一瞬黙り込んだ。
目も見えなくなり口もきけなくなり、耳も聞こえなくなり、鼻も効かなくなったら森での生活は難しいだろう。
その世界を想像すると、お腹の下がゾッとなってあたりが真っ暗になる感じがした。
それでもその闇の中に浮かんだのは彼女の笑顔だった。
一つ深呼吸をして、僕は銀のお星様に返事をした。
「それでもいいです。人間にしてください」

次の晩、僕は人間の格好をして彼女の家にいた。
彼女の家はペンションをしているので、僕は人間になって電話をし宿泊の予約をした。お金は持っていなかったので森中駆け回って集めた。
初めて入る彼女の家は「ろぐはうす」と言うらしく全てが木でできていて、森の中と同じような匂いがした。
主な対応は彼女のお父さんがしてくれたが、彼女は時々僕に料理を運んできてくれた。
初めて近くで見る彼女とお父さんに、僕は胸が詰まるような思いがしていた。
近くで見る彼女は家の外で見るより暖かい匂いがして、とても優しそうだった。
料理が終わりかけの時に僕は思い切って彼女に声をかけた。
「食事の後に一緒に星を見に行きませんか?」
そう言うと彼女はちょっと驚いた顔をしたけれども、にっこり微笑んで
「いいですよ」
と言ってくれた。

食器を片付け外に出た僕たちはゆっくりと歩いた。
どこから来たのかなど彼女が話題を振ってくれ、たわいのない話をしながら歩いていたが、僕が
「あなたはずっとこの家で過ごしているのですか?」
と聞くと、彼女は少し下を向いて、
「前は仕事をしていたのですが、ちょっと悲しいことがあってこの1年間は仕事をしていないんです。もういい歳なのに恥ずかしいんですけどね」
と言って彼女は悲しそうに少し笑った。
「何かしてみたい仕事があるんですか?」
と聞くと、
「本当は人が好きだし、人と関わる仕事がしたいんですけど、今はまだそういう気分になれないんです」
と彼女は言った。
その時、夜空のお星様がパタパタと瞬き、僕は銀のお星様が今だとサインをしているのだと思った。
僕は意を決して彼女に向き直りこう言った。
「実は僕は1年前に道であなたと会った子狐です。
僕はずっとあなたが好きでした。僕と付き合ってもらえませんか?」
僕が勢い込んでそう言った後、彼女はパチパチと瞬きをした後数秒黙り込み、やがて笑い出した。
「子狐って、あの前に父さんと車で走っていた時に見た、ちいちゃい子狐さん?こんなにも大きくなったんですね」
と言ってお腹を抱えて笑っている彼女を見ながら、僕は「こんなに笑ってくれるなら言ってみて良かったな」と満たされた気分を味わっていた。
そこでまた銀の星がパタパタと瞬き、僕はハッとして彼女に言った。
「それで僕はあなたの願いを一つ叶えに来たんです。何でも叶えるので言ってください」
早口でそう言った後、彼女はまた一つ瞬きをして考え込んだ。
「願い事ですね………」
そう言ってちょっと遠い目をしたのち、彼女はふっと首を振って微笑んだ。
「願い事は、あなたがずっと元気に過ごしてくれることです。
会いに来てくれて、ありがとうございました」
その彼女の声と大好きな笑顔を見ながら、僕はゆっくりと目が見えなくなっていくのを感じた。
見えなくなっていく視界の中、最後に彼女の驚いたまん丸の目が見えた。
聞こえなくなっていく世界の中、彼女の「なに?なに?どういうこと?」と言う焦った声が聞こえた。
薄れていく匂いの中、僕は最後に彼女のあたたかい匂いを胸いっぱいに吸い込んで、
「ああ、まだ告白の返事を聞いていないな」
と思いながら、僕の世界は閉じられた。

・・・・・・・・・

僕は子狐コン。
もう子狐ではないけれど、彼女がそう呼ぶから僕は子狐コンだ。
目も見えないし、耳も聞こえないし、匂いも嗅げないけど、僕は毎日彼女と歩くアスファルトの上や、土の上、彼女の家の床を感じている。
僕は子狐コン。
ずっと元気に過ごすことが約束されている幸せな狐だ。


            【終わり】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?