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【83】オワッタ論 日本、中国のカンシ


【オワッタ論1 日本】
直視しなきゃですねー
大宮 ハムハウスでの本棚「ミカンのカンシ〜オワリとハジマリ」
日本でも1200年のカンシの歴史。オワッタ論引用スレッドです。後半で中国編も^ ^

「…日本人の漢詩は、表現による二重のデフォルメによって、中国的でありながら非中国的、日本的でありながら非日本的という奇怪な相貌を持つことになる

・・・書き終えて痛感するのは、けっきょく本書は日本漢詩の鎮魂曲であった、ということである。日本の漢詩は明治期に絶頂期に到達して、そのまま音を立てて崩壊した…」
『近代文学としての明治漢詩』入谷仙介、研文出版社、1989

「…明治へ入ってナショナリズムの風潮の中に、日本の正統文学としての扱いをうけなくなったのは遺憾である。江戸文学と言えば近松や西鶴が正統であるとして、江戸の知識人たちのエネルギーの大半が注がれた漢詩文は、文学史の片隅においやられた。その上、戦後は漢文が”時代遅れ”として蔑ろにされ、漢文訓読の素養が失われたため、国文学者は日本漢文を扱えなくなった…」
『日本人の漢詩 風雅の過去へ』石川忠久

「…各民族がそれぞれの国語で書いた作品だけを、歴史的に配列して概観するという、ナショナリズムの所産となった…
…それは、それぞれの時代の、漢文学を主流とした実際の文学情況からは、ひどくかけ離れた展望を提出するという結果が生じた…
…「近代意識」の先触れともいうべきもの…禁欲的な明治時代などに比べれば逆に遙かに自由な雰囲気さえ持つ…
…維新を境いとして西南諸藩から入境してきた、若い地方人たちはこの近代的感覚の頂点に達した旧江戸文明の担い手たちを江戸から追放することで、感覚のうえでは、より古風な甚だ堅実、素朴、禁欲的、男尊女卑的な気風を、新しい東京の街に行きわたらせることによって、感覚の歴史を逆転…

…藤村において日本の文学的感覚は…江戸後期より遙かにおくれているという奇妙な感慨に捉えられる…」
『江戸漢詩』中村真一郎、1985



【オワッタ論2 中国】
先ほど日本編を紹介☆大宮 ハムハウスで展開中の本棚「ミカンのカンシ」
オワッタ論中国編のスレッドです^ ^
↓ ↓

「…じつは僕たちと同じように、伝統の詩と自分の書く詩との接点を持つのが難しくなってきているというんですね。中国人であるにもかかわらず、李白や杜甫を自分の詩の祖先と考えることができない。むしろ、ある意味ではパウンドやランボーとかのほうが近いと感じている…」
『漢詩百首 日本語を豊かに』高橋睦郎著、中央公論新社、2009

「…ヨーロッパ現代詩の上陸によって、日本をのぞく中国・韓国では伝統詩に対して空前絶後の革命と破壊が起こった。伝統的古典詩歌はこの二つの国では昔の栄光を失っただけでなく、自らその地域を譲り、神の座から降り、現代詩の到来が新旧交代の分水嶺となったのである。日本が違うのは、ヨーロッパ現代詩の闖入で伝統的詩歌の歴史的地位も愛好者の数も揺るがなかったということだ…
…このため現代詩と古典詩は今に至るまで両者並び立ち、お互いの境界を侵さず、相互に尊重し合う局面を保っている…」
「東アジアにおける現代詩」田原 『現代詩手帖』2011、3月「越境するアジア・・・」

「…清末に至って、詩詞はその完成により行き詰まりに直面した。当時の詩詞は格律や音韻の束縛と硬直した辞藻の追求によって、無内容な形式に流れることはなはだしく、人民の思想や情感を伝えることが困難になっていたからである。言い換えれば古典詩歌の形式が社会進歩の要求に適応できなくなっていたのである…」
『中国現代詩の歩み』謝冕著、岩佐昌暲編訳、中国書店、2012

「…マーちゃん、僕たちオワッちゃったのかな…」(シンジby「キッズリターン」)

明日ハジマリ論!

好音本棚については、こちらにまとめいます


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