幸い(さきはひ) 第四章 ③
第四章 第三話
千鶴はどうして桐秋が不機嫌になっているのか分からず、困惑する。
すると桐秋は、千鶴に鰯の煮付けはまだ余っているかと問う。
千鶴がはい、と答えると、桐秋は新しい器にそれを持って来るよう指示する。
千鶴が言われたとおり煮付けを持ってきて、桐秋の膳に置こうとすると、桐秋がそれを止めた。そして、
「これは君が食べなさい」
と千鶴の方に皿を渡す。
千鶴は、桐秋のために作ったのだから、自分が食べるのはおかしい、と訴えるが、桐秋はいいから食べなさいと言う。
さらに続けざまに千鶴に告げる。
「これからは、三食一緒に取ろう。
君の食べるものは私と同じか、それ以上のものにすること。
君は患者のことに必死になるあまり、自分のことが疎《おろそ》かになっているように見える。
病人の私でさえ食べる食事を、朝から晩まで働く君は、私以上に食べる必要がある。
おかわりも遠慮せずにしなさい。
君が、私がおかわりをするとうれしい、といってくれるように、私も君がきちんと食べている姿を見ると安心する」
桐秋の言葉に、千鶴はなんとも形容しがたい気持ちになる。
看護婦の自分が、看護する人間に心配されたのは初めてだ。
普通、患者は自身のことに一杯一杯で他者のことなど気にもとめない。
自身の病が重いなら余計に、相手が自分の面倒を見てくれる者になるとなおさらだ。
特に千鶴は、患者には治療に専念して貰うため、看護婦の仕事中はできるだけそういう「私」の部分を見せないように、意識もしている。
けれども桐秋は気づいた。
自身こそ死病と呼ばれる病を患ってつらいはずなのに、他人の、千鶴の、細やかなところに心を配ってくれた。
この人は本来、心根が優しく、自分が苦しい立場にあっても人を思いやれる人なのだと千鶴は思う。
千鶴は桐秋の繊細な気づかいに、身体全体にゆっくりと染みわたる、出湯《いでゆ》のような心地よい温かさを感じた。
千鶴は何かがこみあげそうになる顔をごまかしながら、桐秋の言葉どおり、自分のご飯をお櫃から普段よりも多めによそい、手を合わせて朝食を食べ始める。
鰯の煮付けは好物だが、今まで作ったものよりもずっとおいしく感じられる。
きっと桐秋が心を分けて渡してくれた物だから。
喜びと幸福をかみしめながら、満面の笑みでご飯を食べ進める千鶴の様子を見て、桐秋も自身の味噌汁に箸をつける。
先ほど安心するとはいったが、千鶴がおいしそうに笑み浮かべて食事を取っている姿をみると、桐秋も自然と笑顔になる。
わずかに弧を描く口元を椀で隠しながら、桐秋は少し冷めた、しかし、だしのしっかりときいたおいしい味噌汁を飲み干した。
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