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幸い(さきはひ) 第四章 ① 

第四章 第一話

 離れの裏手にある梅がたわわな実をつけ、匂いだけで酔ってしまいそうな果実の濃く、甘い香りは、雨の入りを予感させる。恵みの雨までもう少し。

 千鶴《ちづる》が南山《みなみやま》家に来て二ヶ月半。

 桐秋《きりあき》は今のところ順調に治療と研究を両立した日常を過ごすことができている。

 桐秋は研究に対することになると、無理をしようとすることもあるが、そんな時は千鶴が適宜声をかけ、休憩を取らせている。

 そのような日々を送る中で、少しずつではあるが、桐秋と千鶴の間にも会話が増えてきている。

 元来、桐秋は言葉が多いほうではないようだが、千鶴が聞いたことに関しては答えてくれるようになった。

 今しがた千鶴が桐秋に起床を促し、味噌汁の具は何がよいか尋ねた際も、揚げと豆腐という最低限な言葉ではあったが、返事が返ってきた。

 千鶴はそれに気を良くし、早速、二口のガス七輪で温めていた味噌汁に切った揚げと豆腐を入れる。

 傍目《はため》に見ると当たり前のことかもしれない。

 が、何も答えが返ってこなかった以前と比べると、千鶴にとっては大きな進歩だった。

 千鶴は機嫌良く朝食の準備を進める。紺青《こんじょう》の器に、骨まで柔らかく炊いた鰯の煮付けを盛り、針生姜《はりしょうが》を乗せる。

 千鶴は桐秋の食事の様子を見ていて、彼はおそらく、薬味の入ったおかずが好きなのだろうということに気づいた。

 薬味には食欲増進効果があると看護の学校でも習った。

 したがって、桐秋にたくさん食べてもらうためにも、食事に薬味をなるべく取り入れるようにしている。
 
 生姜をたっぷりと添えた鰯の器を膳に置くと、床の上げ板を外し、床下から梅干しとぬか漬けの壺を取り出す。

 梅干しは一緒に漬けてあった紫蘇《しそ》の葉を添え、ぬか漬けはぬかを落とし、食べやすい大きさに切って、一緒に白い花形の小鉢によそう。

 その頃になると、味噌汁の豆腐もほどよく温まるので、赤い漆塗《うるしぬ》りの椀によそい、刻んだねぎをのせる。

 最後にガス竈《かまど》で炊いた羽釜の木蓋を開ける。白い湯気が立ち上がり、千鶴の顔を蒸気がむわりと包み込む。

 炊いたばかりの米から立ち上る白い湯気は、何にも例えがたい食欲を刺激する香りがする。

 蒸気に覆われる瞬間は、千鶴の朝の至福のひとときだ。これを毎朝浴びているお陰で、肌の調子もいいと勝手に思っている。

 南山家の離れにはガスや水道、調理器具など、当代の最新設備が整っており、千鶴は調理するにも洗いものをするにもそれらを用いている。とくに立式の流し台は立って洗いものができ、大変楽だ。

 一般家庭はもちろん、千鶴の家にもそういう設備はなく、米は竈で火をおこして炊いていたし、水を使う時に土間《どま》に引いてある洗い場で座って作業していた。

 そんな違いに当初は戸惑った千鶴であったが、慣れるとやはり便利であり、一月を過ぎたあたりからはガス竈を用いて、満足のいくご飯が炊けるようになった。

 まあ、未だに、火をつけたマッチをガス台に近づけ、あっという間に青い炎が丸く広がる様にはおっかなびっくりするが。

 また、千鶴が食料調達のため、母屋の台所に出向くと、顔なじみになった南山家お抱えの料理人が、手軽に作れる西洋料理を教えてくれたりもする。

 その人にも千鶴と同じ年くらいの娘がいて、親近感を感じるのだと言い、女中頭と一緒になって千鶴に良くしてくれている。

 この間も滋養強壮によい牡蠣を使ったクリーム煮を千鶴に教えてくれ、桐秋の夕食に出すことが出来た。

 料理好きの千鶴にとって夢のような場所。

――この何でもできる素敵な空間で今度は桐秋に何を作ろうか。

 そんな楽しみを考えつつ、千鶴は炊き上がったご飯をお櫃《ひつ》に入れ、黒の茶碗を膳に置く。

 それから桐秋の身支度が終わったであろう頃合いを見計らい、それらを茶の間に運ぶ。

 そこには千鶴の読みどおり、支度を整え、新聞を読む桐秋の姿があった。

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