子供時代の貧困と虐待生活 -8-

中学3年のとき、父が危篤状態なので「すぐにきてほしい」と電話がかってきた。
離婚後、母と僕は九州へ、そして父は関西に残り一人で生活をしていた。

末期ガンでもう助かる見込みがないとのことだった。
僕と母は新幹線に乗り、急いで病院へ駆けつけた。

父の親戚の人たちはとてもシッカリしていてまともな人達なので、僕の母が「毒持ちな人」だってコトに気づいていたと思う。
あまり母を父に近づけないようにしていた。
そしてなるべく僕と父が二人きりになれるように計らってくれた。
父はもう衰弱していて、会話もままならない。
体を動かすのも辛そうだった。
それでも必死に手を動かしてベッドの脇のキャビネットからお小遣い入りの封筒を取り出して僕に渡してくれた。

離婚してから二度ほど会いに行ったことがある。
でも小学六年生の夏休みからは全然会っていなかった。

中学に入ってからの三年間は連絡すらしていなかった。
母が連絡なんかしなくていいと日頃から言っていたからだ。

だから三年ぶりの再開だし、三年ぶりの親子の会話だった。
成長した僕を見て父は喜んでくれただろうか。

元気にしてるか?
勉強はがんばってるか?
そんな他愛のない会話だった。
僕は涙を流し、そして最後に握手をした。


数日後、父は静かに息を引き取った。

そのとき母が狂ったように父のベッドの横で「何もしてくれてないのに勝手に死んで!!」と叫んでいた。
親戚一同ドン引き。
いつも優しく接してくれていた父の叔母さんが「そんなこと言わんといて…」と泣きながら言っていたのが印象に残っている。
僕の母はどこにいても、誰に対しても「毒」でしかなかったのだろう。

親戚のおじさんに「ユズルくん、喪主をつとめてくれへんか」と言われ、喪主がどういうものなのかわからなかったけど、少しでも父のためになることをしたかったので引き受けることにした。

喪主と言っても中学生の僕にできることは限られていて、通夜や葬儀に訪れる方々に挨拶をする、ただそれだけだった。
それでもなんとなく、最後の別れまで父のそばにいれる様な気がしていた。

葬儀が終わり、九州に帰ってきてから母は、僕の喪主での振る舞いを「張子の虎みたいにペコペコしてた」とバカにした。
僕は僕なりに一生懸命がんばったつもりだったんだけど、僕の母はそれを褒めるどころか小馬鹿にして僕の心に傷を刻みつける。

父方の親戚はとてもいい人ばかりだ。
いや、それが一般的なのだと思う。
母方の親戚がホントにクズすぎて、一般的な家族である父方の親戚に違和感を感じたくらいだ。
葬儀のあいだ、ずっと僕を励ましてくれるし、たくさん話しかけてくれる。優しい言葉もかけてくれるし、何より嬉しかったのが、僕という存在を肯定してくれることだった。

僕の母は、僕を否定しかしない。
ずっとここにいたいと思った。

だが僕は九州に帰らないといけない。
またつまらない日常、誰も味方のいない場所に帰らないといけなかった。

つづく

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