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「人としての器」の大きさをどう捉えるか

「人としての器」という概念は、成熟度、人間性、人格を示すメタファーで、一言では表現しきれない総合的なものです。

それでは、この器の大きさはどのように捉えればいいのでしょうか?

以前の記事『「人としての器」の評価をどう考えるか?』では評価に関する3つのアプローチを紹介しました。

実証主義の立場では、他人からの評価や社会的な基準によって客観的に決まると考えます。

解釈主義の立場では、自己の感情や経験によって主観的に決まると考えます。

批判的実在論の立場では、正確な評価は困難であり、様々な手法を用いて目に見えない構造に迫る必要があると考えます。

私たちは、主として批判的実在論の立場から、器の大きさを捉えていこうと考えています。

そのとき、目に見えやすい器の中身の状況を観察しながら、目に見えない器の大きさを推測していくことが大切になります。

今回は、この視点から「人としての器」の大きさの捉え方を深掘りしていきます。


客観評価と主観評価の問題点

器の大きさは、他人や社会からの評価によって客観的に決まるという考え方が一般的です。

時代や社会の価値観によって、器の大きさの「あるべき姿」が明確に定められるとしたら、この考えは理にかなっています。

また他人からのフィードバックがなければ、自己の器の大きさを客観的に把握することは難しいと言えます。

例えば、自己認識だけで「自分の器は大きい」と豪語している人が、実際に器が大きいとは限りません。

客観的な基準を設けて、他者の視点から合理的に評価することが可能であれば、人としての器は客観的に決まるものと言えるでしょう。

しかし、他者の評価だけに依存しすぎると、人としての器の本質を見失う恐れがあります。

特に、器の構成要素に関して言えば、「自我統合」や「世界の認知」といった深層部分は、他人が簡単に把握できるものではありません。

これらの深層領域では、自分自身の経験を通じて自己と世界に対して真剣に向き合う姿勢を表します。

したがって、他人が「あの人は器が大きい」と判断したとしても、その評価者が深層部分まで捉え切れておらず間違った判断をしている可能性はいくらでもあるのです。

どんなに詳細な基準を設けても、個々人の深層部分における価値観や行動の背景にあるダイナミズムを十分に捉えきることはできないでしょう。

さらに、客観評価は、絶対的な基準を設けることであるべき姿を規定し、暗黙のうちに優劣を生じさせてしまいます。

その結果、「とりあえず器は大きいほうがいいから大きくしなくてはいけない」「自分は他人と比べて器が大きくないからだめなんだ」などの誤った解釈を導いてしまいます。

この観点からすると、人としての器を客観的ではなく主観的に捉えるべきという考え方にも一定の合理性があります。

しかし、主観的な評価には、どうしても自己のバイアスが生じてしまうという限界もあります。

誰もが自分で自分のことを正確に把握することができるとは限りません。

主観評価だけに頼ると、自分の思い込みに縛られて視野が狭くなる可能性があるのです。


器の大きさは受け止める中身に対して決まる

器が目に見えないものであるならば、その大きさを誰もが正確に評価することはできないという前提に立つことが必要になります。

ここで、目に見える事象や出来事よりも、その背後に存在する目に見えない「構造」が重要であるという、批判的実在論の考えを取り入れてみたいと思います。

つまり、器そのものを見るのではなく、目に見える中身によって器の大きさを推測するという考え方が必要になります。

目に見える中身を、本人が直面している経験(出来事や責任)と捉えることにします。

このとき、「人としての器が小さい」とは、経験に伴う思考や感情の変化を十分に受け止めきれず、その結果として溢れ出してしまう状態にあります。

たとえ客観的な基準で見たときに器が大きいと思われる人でも、本人が支えきれないほどの悲しく苦しい出来事に直面した場合、器が小さいと思われる言動が生じることもあります。

そして、それを見た周囲の人は、「あの人は意外と器が小さかった」と思うかもしれません。

逆に、「人としての器が大きい」とは、経験に伴う思考や感情の変化を十分に受け止めて丸く収まっている状態にあります。

たとえ客観的な基準で見たときに器が小さいと思われる人でも、変化の少ない安定した環境にいる場合、器が大きいと思われる行動を取ることもあります。

例えば、ある安定した事業を運営する中小企業の経営者は、もしかしたらその企業に所属する社員からみると器が大きいと思われているかもしれません。

このように考えると、器の大きさは受け止める中身に対して相対的に決まるものと言えます。

誰しもが器の小さい状況に直面することもあれば大きい状況に直面することもあるという視点を持つことで、器の大きさに絶対的な優劣をつけることなく考えることができるようになります。

ただし、積極的に中身を注ぐような経験をしていないとしたら、やはり、その人の器が大きいとも言えないでしょう。

変化の少ない安定した環境に居続けられることは、現代社会においてはほとんどありません。

複雑な問題に直面する現代社会では、知らず知らずのうちにどんどん中身が注がれる状況にあり、それを受け止めるためには、より大きな器が必要となるでしょう。

したがって、器の大きさを捉える際には、中身の総量(どれほど大変な経験しているか)と、溢れているかどうか(その経験を十分に受け止めきれているか)によって推し量ることになります。

そして、現状の器の大きさに安住するのではなく、もう一回り器が大きくなるように、多様な経験を積むことで中身を注ぎ入れて、溢れそうになるギリギリのところで、さらに大きな器をつくろうと模索し続けることが重要と言えるでしょう。


まとめ

不思議なことに、客観的な基準で見て器が大きいと思われる達人たちはみな、「私なんてまだまだです」と自分の器の大きさを謙遜します。

これは、絶えず新たな中身を注ぎ込むような経験を重ねている中で、自身の器が小さくなる側面があることもメタ認知できているからではないでしょうか。

真に器が大きい人とは、自分の器の大きさを絶対的な基準で捉えずに、常に中身を注ぎながら、より大きく器を広げていくというプロセスを重視し、行動をし続けている人と言えます。

この認識を持つことで、私たちは自身の器をより深く理解し、さらに成長していくための道筋を見つけられるようになるのではないでしょうか。


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