学校という奇異な職場

 以前、私は学校や先生が嫌いなのに、今、学校という場所で先生という人たちの間で仕事をしていると書いた。実際、学校で先生達とも関わって給料を得てはいるのだが、改めて見渡してみると、私はとっても不安定な環境に居ることがわかる。それは中途採用でその場所に飛び込んだということも少なからず関係しているが、最低週五日、一つの学校を職場として就業している〝先生方〟と違って、私は週五日勤務していても、週二日と週三日に分かれて二つの学校を梯子している為、どちらの場所でも、職場としての学校に於ける人間関係の構築が進んでいないという点が挙げられる。
 こういった客観的な立場で働くことが初めてで、常にアウェイ感から抜け出せないのは寂しかったりするのだが、嘗て保育所等の連携が求められる場所で、苦い思いをしながら十数年を過ごした身としては、一歩隔てた場所から業務に関わる立場というものに、少なからず憧れていた。人間関係のしんどさは私の心に闇を落とし、大きなストレスとなって身体を蝕んだ。そこから抜け出したいのに抜け出せない現実から、ようやく異次元へと逃避出来たのである。喜ぶべきことではあるが、少なからず寂しいと思うのは、学校という場所が私にとっては初めての職場で、先生というものが保育施設と学校とでは、天と地とは言わなくても、右と左ほど違うものであることを知ったせいかも知れなかった。
 
 N校はマンモス校である。少子化著しいこの国に於いて、これ程までに子どもが溢れていることに毎回驚く。子ども達はその大半が無邪気でフレンドリーだが、中には横柄で、言葉も態度も〝乱暴者〟と呼びたくなる子もいる。しかし学校が大き過ぎるせいで、大人の目はあまり行き届いていない。しかし、それが悪いとも言えないのは、子どもも先生も大らかで自由過ぎるせいだ。社会問題化しているいじめなど、兆候も見られない。集団に入れず、別室で個別に授業を受けている少数派は居ても、そこを突く者は今のところ見当たらない。一日中、校内がわちゃわちゃしているせいで、時間はあっという間に過ぎる。目が行き届かないことを良しと考えるくらい、埋もれていられる自由さに、最近慣れつつある私にとっては快かったりする。
 
 T校は各学年ほぼ一クラスの少人数校だ。市内でも学力レベルが高く、様々な取り組みに於いても評価を上げることから、小規模ながら注目を集めている。
 市内の代表として表舞台に立つことも多く、子どもも職員もきっちりしている。先生は先生として敬われ、挨拶や言葉遣いには先生と子どもとの間にしっかり境がある。〝先生〟という職業を敬っていない私にはかなり窮屈であるが、世の中にはその境こそが必要だと考える多くの人々がいる。先生と子どもが友達のようであってはならないとする意味を真っ向から否定するつもりはないが、どんな先生でも敬わなければならないと教えられ、社会に出ても立場の差や年功序列を受け入れて、従順に生きて行く為の日本人気質を学ぶには、格好の場と言える。私にとっては窮屈極まりないが、私のような大人を作らない為には、悪い場所だと一概には言えない。鬼のような教師にさえ、決して刃向うことのない子ども達を見ていると、頭が下がる思いがする。
 
 二校を比べると、Nが良くてTが良くない…と取られる気がするが、そういうわけでもない。確かに、埋もれていられるN校は、出勤日数が多い分、慣れるのにも一歩リードを取っているが、とにかく業務が忙しく、トイレに行く暇もない。毎回多忙さに目を回しているし、仕事がちっとも片付かない。子どもは勿論のこと、先生の顔や名前も覚えられないほど、大勢多勢だ。お陰で、広~い職員室の対岸に居る先生とは、未だ顔を合わせたことすら無かったりする。廊下ですれ違っても誰だかわからない。職員なのか、保護者なのか、部外者なのか、それぞれ名札を付けていてもド近眼の私にはその表記内容まで見えず、勿論顔も覚えていないので、一日に何度も同じ人に挨拶してしまったりする。
 一方、T校はこじんまりしている分、誰がどのクラスの先生かくらいの把握はある程度出来ている。直接関わる先生はクラスに関係なく、私が担当する特別授業に介入する一部の職員だけという希少さなので、コミュニケーションはN校以上に取ることはない。
 熱心な学校なので、業務量はN校の何倍もあって面倒臭いが、週二日にも拘らず、授業の合間にフリーになる時間が若干ある分、トイレに行く暇が無いほどではない。要領さえ弁えれば、授業以外の仕事もその時間に何とかしようと思えば出来るので、目を回すほどではなくなる。
 しかしそれにしても固い。先生だけでなく、子どももだ。子ども達は威圧され、完全に委縮しているように見える。もしかしたら保育所という場所で、抑圧とは無縁の保育で大切にされてきた乳幼児を見て来たせいで、余計にそう思うのかも知れないが、かちんこちんの子ども達を見ていると、私まで息苦しくなる。そして先生方が怖い。悪質な子ども同士の関係は、此処でも見受けられないのに、一部の先生が鬼だ。
『それはいじめではないですか?』
 囁きたくなるような言葉や眼差しが、子どもに向けられるのを見た時、私は先生というものが増々嫌いになった。そういう先生たちの中に居て、私は自分にもそれら威圧的な言葉や眼差しが向けられるのを直に感じている。正規職員が大半の職場環境で、教員でないばかりか、臨時職員で常勤ではない自分は、明らかに蔑まれている。一線を介していなければ、私はすぐにこの職から退いていたであろうその差別は、一線を介していても身につまされる時がある。自分が選んだ道でも、こういう差別が現存することを実感すると、とても嫌になるのである。
 
 私が寂しさを感じるのは、どちらの学校に出勤しても同じだ。人間関係の構築を望んでいなくても、職業や雇用の格差は私の心に隔たりを生む。Nのように実感させなくても、Tのようにあからさまであっても、そこに大きな違いはない。又、人間関係が既に出来上がっているという点において、何処にも属さず、尚且つ属そうにも関係構築の難しい勤務体制では、私は永遠に孤であり、部外者であり、お客様的立場からの脱却が難しい。そもそも〝教員〟として雇われているわけではないので、その時点で私は集団生活における共生者ではないのである。
 実際、甘んじている部分はある。ずっと禁じられていた考え方がある程度許される。
『私には関係ない。』
 集団生活や協調性を重んじる場所に於いて、この考え方は許容されるに値しない。しかし私は何処にいても、そのように考えたくて仕方がない時があった。援助者が居ない場であっても、援助者として生きなければ叩かれるような理不尽さを突き付けられる度、私はそのような逃避に走りたくなった。協力や協調は、自分には与えられなくても、他人から強要されることが常だったせいだ。違いが生じるのは、私がそのトラウマを感じながら過ごした保育関係の現場が女だらけだったのに対し、学校という場所がそうではないことが挙げられる。性別のことだけに重点を置けば、Tは保育現場に限りなく近いが、Nはとても遠いと言える。依って、女性が強さを発揮し、居心地の悪さを少なからず実感しているTでの勤務が、Nに対して見劣りするのは仕方がないと言えた。女社会の嫌な部分を存分に見て来た身としては、Nの方が楽なのは仕方がないのであろう。
 学校を直に統率している教頭の言葉を借りれば、Tに於ける職員の人間関係は〝とても良い〟らしいのだが、私はその目を節穴だと感じている。T校の職員はその学校の風潮と伴うように、とても堅実だ。一線を介しているから私はその溝を感じているだけで、内々では確かに、良好な人間関係が築かれているのかも知れないが、〝部外者〟然としている私をシャットダウンする気配に満ちている様子を直に感じていると、結束の影には必ずその踏み台となる存在が在ることを知らずにはいられない。
 一方、N校を見ていると、こちらの人間関係も頗る良いことがわかる。若い先生が多い分、活気に満ちていて軽口も甚だしいが、職員室は、まるで生徒の集う教室の、休み時間のようである。そこには男女の比も年齢差の比も無い。唯あるのは、職業と雇用の比だけだ。
 どちらの場所でも私は孤である。それが時に寂しいが、現実を見ていれば、どちらにおいても組織に属そうと思う方が困難であり、野暮だということがわかる。求める時点で間違いなのだ。
 部外者でお客様の私は、デスクで黙々と弁当を食らいながら、人間観察をする。誰がどんな人で、誰と誰が仲良く、誰が どんな動きをしているのか…。私が職員室に宛がわれたデスクで仕事をすることは非常に少ないが、集団の中で孤独を感じる時、自らの妄想に逃げられないのは、あまりにも周りが賑やかなせいだ。
 孤独でありながら集団を知ろうとする行為を、今暫く楽しもうと思う。〝楽しむ〟と書きながら、必ずしも楽しいわけではないのは、やはり孤に因る寂しさから抜け出せていないせいであろうが、もう少し慣れれば、この学校という奇異な職場で、要領良く生きる術も身に付くのではないかと、少なからず期待を持っている。
   


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