将来何になりたいか?

 子どもに訊かれる。
「先生の夢ってなに?」
 はて、夢とな。首を傾げる。
 私を大人と思っての発言か…?と思う言葉をしょっちゅう投げ掛けられるが、夢を訊ねられたのは初めて。詳しく意図を訊いてみると、将来何になりたいか?という話らしい。
 尚のこと、『私を大人と思っての発言か?』と思う。
 学校司書は…というか、私は、どうやらあまり、小学生に〝大人〟だと認識されていないようだと度々感じる。距離が近いらしいことに不満はないが、一体何だと思われているのか悩ましい。
 この仕事に就いて以来、今まで感じたことのないような幸せを山のように感じている。
 嘗てどうしても叶えたかった夢に挫折して以来、死ぬしか道はないと思っていた。何年も絶望を引き摺り、世間一般で言えば最も若く輝かしいであろう十数年を、見事、棒に振った。
 流されるままに就いた仕事に没頭し、遣り甲斐を見出し、それこそ天職だと確信した矢先、確信は打ち砕かれた。心も体も壊し、今もその後遺症が残る。
 唯、それも全て経験となり、糧となり、今がある。縁あって新しい道へ踏み出し、大きな山を幾つも越えて、此処に辿り着いている。
 例えば恋愛とか結婚とか、それこそお金とか、足りないものだらけの人生ではある。けれど毎日が楽しい。こんな細やかなやり取りが嬉しい。
 将来何になりたいか?と問われれば、この仕事を一生続けたい。天職と信じた前職以上に、この仕事を通じて誰かの役に立ち、生活の糧として生きていたいと思っている。欲しいものは他にもあるが、将来なりたいものは、現時点で思いつかなかった。
「ずっと元気で楽しく暮らせるのが夢かな…」
 本心でしかなかったが、隠居の身のような答えだと、言った自分が一番思った。聞き手が聞きたかった内容ではないことも自覚していた。
 案の定、彼女は呆れたように溜息をつく。
「そういうことじゃないねん。」
 そうであろうとも。
 でも、今は思いつかないのだ、若者よ。今が幸せ。そんな時には夢や希望などなかなか考え付かないものなのだ。と、常に野望と現実の狭間でのたうち回って来た嘗ての子どもは、大人になって今、初めて気付きました。
 実際はいっぱい夢がある。それこそ恋愛とか結婚とか、例えばお金とか、そんなことも含め、また、そんなことだけでなく、小さな夢や希望や、その気になれば叶うのではないかと思うような数々の可能性…。星の数とまではいかなくても、消去法くらいの気持ちでひとつずつ片付けていけば何とかなるかも知れない。
 一方、人生百年時代と言われても所詮思い描くだけで、到底手が届きそうにないものがいくつもある。
 そもそも本当に願ったことは、何ひとつ叶った試しが無い。
 時々、「結婚は、二番目に好きな人とするぐらいが幸せになれる」というようなことを耳にするが、自分の心が〝一番〟と定めたことが、現実に受け入れられた試しがないのだ。確かに〝二番目〟以降で山のように幸せを手に入れている気はする。充分幸せだとも思う。けれど〝一番〟は〝叶わぬもの〟というトラウマに、一生縛られて生きるのだとしたら、それって幸せなんだろうか…と少しもやもやする。どこか悲しい人生のような気もするし、最後の一歩を踏み出せないまま私という人生をいつか終えるのだとしたら、見方によれば不幸な気さえしてくる。
 幾つ叶えられるかやってみようか。
 幾つ出来るのか試してみようか。
 毎日忙し過ぎて、そして、それはそれで、不満を感じる暇が無いくらい愉快で仕方ないから余所見なんてしなくても充分満ち足りているのだけれど、いつか君たちに胸を張って、夢を希望として語れるようになりたい。

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