つるむ二人②

 職場のIさんは、とても落ち着いていて賢い人である。彼女は言葉の一つ一つが丁寧で、物事の道理を説明するのが巧みであった。そのお陰でわからないことがわかったり、理解出来ない事が理解出来るようになるという経験を、私は何度もしたことから、随分助けられ、心から尊敬していた。
 一方、同じ職場のFさんは、とても強気な人であった。職務経験が豊かで自分に自信があるこの人は、常に大きな声で幅を利かせている。職場内でも年長者にほど近い為、皆から一目置かれる雰囲気を持っていた。
 IさんとFさんは年こそ十も違ったが、家が近所ということの影響もあるのか、気付けばいつも二人一緒であった。どうやら通勤も一緒にしているらしく、しかもFさんがIさんを車で送迎している様子。家が近所なら珍しいことではないのかも知れないが、通勤だけでなく職場でもべったりなんて、お互い窮屈さはないのだろうか…と、群れるという行為が頗る苦手な私には、なかなか理解が困難であった。
 気付けばワンペアなIさんとFさんであったが、どうも後追いしているのはIさんでなくFさんであるようだ。強気で自信家のFさんなら、一人で突っ走っていてもおかしくないようなのに、とても意外である。
 Fさんは職場で仕事上の問題や課題を発見しては、先ずIさんを呼ぶ。机や椅子一つ動かすのにもIさんを呼び、誰かがミスをしているのを発見してもIさんを呼んで、自分がする批判に、暗に同調を求めた。
『この人はいつも偉そうにしているのに、自分一人で物事をやり遂げたり、決断したりすることは出来ないのだろうか…』
 私が思うのと同時に、同僚のTも口には出さぬが思っていたようで、後に意気投合する。気付いていても何も言わないというのが、この職場では普通であり、また、私が気にするほど周りが気に留めることではなかったのかも知れなかった。
 また、Fさんの呼び出しに対し、Iさんも抵抗なくホイホイと付いて行く。Iさんは誰に対しても分け隔てのない人であったから、〝誰にでも同じ対応を〟という自然な行動だったのかも知れないが、表舞台で姿を見ないと思ったら、二人して裏に引っこんで個別の仕事をしていたりするのが、何とも奇妙であった。
 一方で、賢いばかりに狡いと感じることも少なくなかった。
 Fさんに因ると、Iさんや自分は〝忙しい〟らしい。しなければならないことが山積みなのだから、表の仕事は他の人間(新人やアルバイト)にやらせて、自分達は〝立て込んでいる他の仕事〟を「しなあかん!」と言うのがFさんの言い分であったのだが、新人の私には、FさんやIさんを始めとするベテラン勢が何に対して忙しいのか、まるで見えてこないのであった。
 暇が嫌いで、仕事に関してはじっとしていることが出来ない人間の私は、自分に急ぎが無い限り「何でも手伝うので言ってください」と一度ならず申し出ていたのだが、彼女達の〝立て込んで忙しい仕事〟を手伝わせてもらったことは殆ど無い。裏に引っこまれていては何をしているのか見えないし、〝立て込んでいて忙しい〟のは一日二日ではなく、毎日である様子だった為、同じ職種の同じ雇用条件で働いている身としては、その言い分に〝納得する〟という機会をついに得ることが出来なかった。
 Iさんが「忙しい」と言えば、Fさんは庇う。Iさんの仕事をFさんは手伝っているのかも知れないが、それに因ってIさんとFさんが抜ける穴埋めを、新人とアルバイトが理解も納得も出来ないまま、する羽目になるのであった。しかもその「忙しい」は、いつまで経っても終わらない。忙しいはずのIさんが表に出ているので、「お仕事大丈夫なんですか?」と訊ねると、「時間貰っても落ち着いて出来へんねん」と言うのである。Iさんは集中力に欠ける人なのか、それとも時間制限を設けられると逃げたくなる人なのか…。与えられた時間で出来るだけのことをしようと思う人でないことだけは、確かなようであった。
 お陰で悪循環はなくならず、忙しいIさんをFさんが庇い、その穴埋めが私達に回って来るが、Iさんの〝忙しい仕事〟はいつまで経っても終わらない…という連鎖が延々続いた。
 退職が決まった時、私は「表に立つばかりの仕事は負担が大きかった」とIさんにこぼした。
 Iさんは「新しい人には勉強してもらう機会やったし、Bちゃんたちが表に出てくれたことで、私らは私らの仕事が出来たから、ありがたかった」と言った。
 そんなことを言われたのは初めてであったが、報われたかと言われれば答えはNOである。有り難いどころか、〝忙しい〟と言っていれば誰かが庇い、時間や職務の制限なく働ける場所へ避難出来る…という図式が、当たり前になっているようにしか私には見えなかったからだ。本気で感謝の気持ちがあるなら、与えられた時間で自分の仕事を何とかしようとするだろうし、それを終えた時点で、感謝の言葉を口にするはずである。
 退職を選んだのは、様々な内容の仕事がある中で、表に立つばかりのワンパターンな業務しか与えられない環境に、自らの成長も将来的な希望も見出せなかったことも理由のひとつであったが、終わりがわかって感謝されたとしても、今更何かが変わるわけでもなく、それなら普段から言葉に出して欲しかったと思ったのは、恐らく単なる甘えであろう。
 何処の職場もそうなのかも知れないが、新人や立場の弱い雇用形態で働いている者が、〝勉強〟という言葉を代名詞にした負担の大きい職務を宛がわれることが、当然になっているように思えてならない。そういうものだと納得出来ないのは、私がベテランや指導する立場の人間の〝背中〟を常に見ているからである。〝勉強〟とは、勿論自ら努力して開拓していくものでもあるかも知れないが、〝手本〟も無しに機会だけ与えられたところで、出来る〝勉強〟は限られてくる。新人を指導監督しようと思うベテランという存在が居るのなら尚更だ。
 幾つかの職場を経て、何故かいつも〝最年少〟や〝一番の下っ端〟を演じてきた私だが、良き手本となる〝背中〟を見たことは、実に僅かだったと感じている。世間一般がどうであるか、常識というものが何なのか年々解らなくなる身の上であるが故に、私の考えこそ間違いだらけなのかも知れないが、目上の者が尊敬出来る存在なら、向上心ある新人は、その背を追おうとするのではないかと思うのだ。
 一方で、人はつるめば力を増し、群れれば攻撃的になる。結束すれば強くなるが、別の使い方をしても同じで、ターゲットを決めて攻撃することで強まる結束もある。仲間内では連帯感が増し、同じ目標を持っていれば乗り越えられる山もそれだけ大きくなろうが、逆ならどうか。群れの中が平和であるために、群れの外に負荷がかかることに罪悪感が生まれないのは、群れの中での共通意識として、〝自分達さえ良ければいい〟という暗黙の掟が存在するからに他ならない。
〝仲間でないものにやらせておけばいい〟…。
 Fさんは堂々と、そういった主旨のことを口にする人であった。
 Iさんがそれに気付いていないとは到底思えない。賢い人である。馬鹿なフリをして利用している…それが出来るというのは、ある意味一番恐ろしいことであった。
 私が群れないのは、その群れを美しいと思えないからである。美しい群れが存在するなら、手を上げてでも参加したいが、そんなものは存在しない。私が美しいと思うのは、一人でも凛と立っていて、常に自分と闘っているような人間である。私はそういう人になりたいと思うし、なろうとしている。それだけは何処に行っても変わらないから、何処に行っても群れから攻撃される存在から脱することが出来ず、社会を嫌悪しながら生きて行く羽目になるのだろう。情けないとしか言えない話である。

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