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サブスクリプションと音楽とアルバム

 先日、テレビを見ていると関ジャニ∞の某番組で、「業界人が選ぶ通して聴きたい音楽アルバム」というような企画をやっていて、見ていてなかなかに興味深い内容だった。とりわけ印象に残ったのが、出演者が語っていた「こうしてアルバムを通して音楽を捉えるというのが新鮮でまた面白く思った」というニュアンスのコメントで、確かに最近の世間の人々の音楽との付き合い方から言えば、音楽をアルバム単位で捉えるということは少なくなっているんだろうなあと改めてしみじみ考えさせられた。今やサブスクリプションが全盛の時代であるし、わざわざアルバム単位で音楽を聴くなんて奇特なことは誰もせずに、好きな音楽だけをダウンロードして片手間に飛ばし飛ばし聴くというのが一般的な消費者像なのかもしれない。かくいう僕も、この頃は以前ほどアルバムというフォーマットへのこだわりがなくなった気がする。もちろん、気に入ったアーティストがいれば、アルバムを通して音楽を聴くのが礼儀だという考えは今も変わっていないけれど、日常的にはSpotifyなどでおすすめ曲を延々とシャッフルしている方が多い。

 そもそも、今からつい三年ほど前まで僕はサブスクリプションに対してめちゃくちゃに否定派だった。音楽をデータでストリーミングする?そんな横着するならCDを買え!けしからん!とばかりに、せっせとCDを買ってはパソコンに取り込んでiPhoneに同期して……という作業を日々繰り返していた。今思えば、なかなかにご苦労なことである。しかも、その理由というのも「何となく音質が悪くなる気がする」とか「CDを現物で自分のものにできないのは不安な気がする」とか、かなり主観的なぼんやりとした拒否反応にあっただけのように思う。要は頭が古かったのだ。

 結局、令和3年を迎えた現在、前述のとおり僕はサブスクリプションをめちゃくちゃに愛用している。これほど素晴らしいサービスを何故もっと早くから使わなかったのかと、使い始めた当時の僕は心から絶望したほどであった。

 もちろん、よく言われるサブスクリプションの登場によって、音楽との付き合い方が変わってしまった、という意見は至極全うだと思う。わざわざCDショップまで出掛けて、何千円も払ってCDアルバムを購入して、家に帰ってからジャケットを眺めて、歌詞カードを読み込んで、オーディオでアルバムをじっくりと聴くというその一連の作業が、そのアルバムやアーティストに対しての愛着を深める一種の儀式だったことは否定できない。サブスクリプションのように、片手間で聴き、気に入らなければすぐ飛ばすと言うような行為はなかなかできないわけだ。とりあえず、最後まで聴いてみてから、「やっぱり違うな」と思ったり、せっかく買ったんだしもう一回と聴いているうちに「こういうことか!」と新しい発見があったり、多分そうやって僕は自分が好きな音楽に対する物差しを少しずつ手に入れたような気がする。

 その一方で、サブスクリプションの登場で、新しい音楽と出会う機会は爆発的に増えたと僕は確信している。月額千円ほどの金額を払えば、大体の世の中に出回っている音楽をすぐ聴けるわけだし、先ほどの物差しの例からすれば、自分が好きな音楽を探す環境は以前よりどんどん整っているわけであって、あとは要は個々人の音楽への向かい方が重要なのかもしれない。最近の若手ミュージシャンを見ていると、本当に音楽素養的バックグラウンドが複雑で、よくもこんなコアな音楽を聴いてきたものだなと思うことも増えたのだけれど、それは間違いなくサブスクリプションだったり、Youtubeだったり、音楽に対するアクセスの容易さと環境がもたらした賜物ではなかろうか。かつてレコードがCDへと覇権を明け渡し、今CDはmp3というデータとしての存在に完全に置き換わろうとしているように、きちんと音楽を聴く人はどんなフォーマットであろうと音楽をこれからも聴き続けるし、その逆もまた然りなのである。

 と、いうことで僕は音楽の未来を憂う的なことは全然言いたくなくて、それはそれとして音楽をアルバムで聴くのってなかなか良いことですよ、と言いたいだけなのです。僕がはじめて自分のお小遣いで買ったCDアルバムはスピッツの「三日月ロック」で、あれは小学六年生の頃の話。今聴き返しても、このアルバムは名盤だなと思うし、自分にとっての原点であるアルバムがあるというのはいつでも帰ることのできる故郷があるようでとても落ち着く。一曲目の「夜を駆ける」からはじまって、最後の「けもの道」までの53分。わくわくしながら、ヘッドホンの中で過ごした時間を今でもありありと思い出すことができる。自戒というか、僕自身も音楽ともっと真摯に付き合っていかなきゃなと、考えさせられる良いきっかけであった。

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