かがみよ あなたよ かがみさん
「ねぇ、お母さん。お父さんのスマホのパスコードなんて、分からないよね」
四十九日だった昨日、遺品の片付けを手伝っていた中学生の娘が、亡くなった夫のスマホを見てそう言った。
「暗証番号? 知らないわねぇ。スマホは解約して、そのまま処分するわ」
私の言葉に、娘は頷いた。
「お父さんスマホさぁ、エッチな写真がいっぱい保存されてたりするかもよ。処分するときは、そんな事も気をつけた方がいいよ」
父親が亡くしてからずっと暗い顔をしていた娘がそう言って笑ったから、私はほっとして、娘より大きな声で明るく笑った。
「あなたのお父さんは、そんな人じゃないわよ。でも、そうね、個人情報には気をつけるわ」
今日、娘が学校に行ってから、私は外出するための化粧を終えた。そして、手鏡を取り出すと、洗面所に備え付けられた鏡と手鏡を合わせて、360度、全方向からの自分の顔と髪をチェックした。
後頭部の髪の奥で、小さく光るものが見える。白髪だ。私は手鏡を左手に持ったまま、一本の白髪をつまみ、抜き取った。
まだ四十代なのに、と抜き取った憎たらしいほど強く光る白い髪を見つめて思う。
そして、あの女には、まだ白髪は生えていないのかしら、と火葬場で夫の骨を盗んだ女の姿を思い浮かべた。
『小料理屋 みなと』の女将。たぶん三十代。
あの女は、知らないだろう。私が、彼女と夫との関係を気づいていたことも、彼女が夫の骨を盗る瞬間を目撃したことも。
あのとき、火葬場で、夫のおそらく指の骨をポケットに入れた女を見た瞬間、怒りの熱が足元からこめかみにまで走り、ぎりっと音がするほど奥歯を噛み締めた。
でも、私は何も言わなかった。私の怒りは、泥棒猫を見た条件反射のようなものだと自分でも分かっていたから。
それに、大酒飲みの夫は死んだのだ。その骨の一部を女が欲しいのなら、盗らせておけば良い。
火葬場で「何をしてるのよ」などと騒げば、この小さな港町で、私たちが噂の中心人物になるだけだ。
私は、女から目を逸らし、女の存在そのものを無視した。四十九日の昨日まで、忘れていた。
化粧を終えた私は、和室の居間にある仏壇の前に行き、亡くなった夫のスマホを手に取った。
電源を入れて『パスコードを入力』と記された画面を見つめた。
試しに、夫の誕生月と日、四桁の番号を打ち込んでみた。失敗。スマホは開かない。少し考えて、娘の誕生月と日を打ち込む。また失敗。
仏壇の夫の写真を見つめた。日に焼けた笑顔を見つめた。そして、3710と入力してみた。
瞬時に画面が開いた。待ち受け画面は海の写真だった。冬だろう、暗い海の写真だった。夫が酔って落ちて死んでしまった海。
パスコードは3710だった。みなと。愛人の名前の数字語呂。『小料理屋 みなと』の女将の名前。
「本当に単純。三回目でロック解除できたわよ」
私は、仏壇に向かって言った。
スマホの中には、写真を保存するアプリがある。そのアイコンをしばらく眺めて、私はスマホの電源を切った。
家族写真が保存されているかもしれないけれど、パスコードの女の写真もあるかもしれない。それを今さら見る気はない。
キッチンに向かい、シンクの中に夫のスマホを投げ入れて、その上に水道の蛇口からの水を勢いよくかけた。水がスマホの上で跳ねる。
これで、スマホも死んだ。
私は洗面所に戻り、また自分の顔をチェックする。手鏡を取り出し、合わせ鏡で、化粧の最終確認をした。
そして、バックの中から自分のスマホを取り出すと、3104と打ち込んで、ロックを解除した。
3104、さとし。
ねぇ、あなた、知ってた?
夫婦って、合わせ鏡よね、
鏡の中に、冷たい本当が見えるの。
私のパスコードは、3104、さとし。
あなたのパスコードは、3710、みなと。
私があなたのスマホのロック解除できたのは、私のパスコードも愛人の名前の数字語呂だからよ。
同窓会をきっかけに、一年前から関係を持っているさとしに、私は電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
「ねぇ、今から会える?」
洗面所に備えつけられた鏡に向かったまま、私は訊く。
鏡の中には、スマホを耳にあてた私がいる。
その背後に亡くなった夫も見える。
「ねぇ、今、どこにいるの?」
鏡を見つめたまま、私は訊く。
鏡の中の夫が愛おしいものを見るように目を細め、笑う。
「ねぇ、聞こえてる?」
↑こちらの作品のつづきです。が、それぞれ独立した掌編になるようにした、つもりです。
↑山根さんの企画に参加させていただきます。
#合わせ鏡