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絵の狂気

 その絵に出会ったのは、全くの偶然だった。
 古い物が好きな僕は、ときどき都内のアンティークショップを巡る。唯一の趣味だ。
 初めて入った店だった。蔦に覆われた外壁に『アンティーク夢想』と書かれた小さな看板。
 ドアを開けると、左手にローズウッドのテーブルがあり、その上には英国製の古いティーセットが並んでいた。右手には日本の階段箪笥、その横に古い花器や江戸切子のグラスがあった。
 実用的な古道具たち。日本と諸外国の、人に触れられた過去のある物が所狭しと並んでいる。僕が好きな雰囲気の店だった。
 髭を生やした店主に軽く頭を下げてから、僕は店内をゆっくりと歩いた。

 椅子やテーブル、花器や茶碗、ひとつひとつの商品を、僕は丁寧に見た。アンティークレースや着物の帯も展示されていた。僕の靴音だけが響く店内をゆっくりと歩いた。
 そして、店の一番奥の壁にかけられていた絵と目が合った。絵の中の女と目が合った。
 僕は引き寄せられるように、その絵に近づいて、絵を真正面から見た。
 赤い服を着た女の絵。古びた傷だらけの木製の額縁に、古いのか新しいのか分からない絵が入っていた。
 大きな特徴のある絵ではないはずなのに、僕は赤い服の女の絵から視線を外せなかった。真正面で女と見つめ合った。
「なぜか気になる、でしょう?」
 背後から急に声をかけられて、僕は驚いた。店主がいつの間にか後に立っていた。

「先日、蔵を解体するという東北地方の家に行ってきたのですが、その蔵にあったものです。額縁は明治大正期の栃ノ木、紙は比較的新しいと思うのですが、いつの物なのかわかりません。」
 僕は絵を見つめたまま、背中で店主の話を聞いた。
 赤い服を着た女の顔は、僕の好きなタイプというわけではない。一重まぶたののっぺりとした顔。ただ、僕は、その顔を、その肌を、触ったことがあるのだ。肌の質感を指先が覚えている、そう感じた。
「額縁の状態からも、売り物にはならないと思うので、良かったら差し上げますよ」
 思わず振り返って、店主の顔を見た。
「ずいぶん、気に入っていただいたようなので」
 髭の店主は僕の目を見てそう言ったあと、俯いて小さく笑った。
 僕は、初めて入った店で、初めて会った店主の言葉に甘えて、その絵を頂戴した。

 A4サイズ程の絵を抱えて自宅に戻った。  
 1LDKの一人暮らしの部屋には、ベッドとアンティークのテーブルぐらいしか物は置いていない。
 殺風景な部屋の壁に、赤い服を着た女の絵を掛けた。絵は、最初からそこにあったように馴染んだ。
 部屋のどこに立っても、どの角度からでも、赤い服の女と目が合った。
 僕はその夜、アンティークショップの帰りに買ったコンビニ弁当を食べた。椅子に座って、冷たい弁当を食べながら、絵を見た。
 ふいに、赤い服を着た女が、湯呑をテーブルに置く姿が頭に浮かんだ。そうだ、この女は僕の欲しい物を、黙っていてもそっと差し出してくれる。
 僕は箸を置き、湯呑みを両手で包み、温かい緑茶を飲んだ。湯気の向こうに、僕の向かいに座って、微笑む赤い服の女が見えた。

 週末には、付き合って二年になる朱美と会った。映画を観て、洒落たレストランで食事をしてから、二人で僕の部屋に帰った。
「この間、買ったんだ。良い絵だろ?」
 僕が壁の絵を指差して言うと、朱美は何も分からないのか「えっ? 冗談?」と笑った。
 音楽はジャズをかけて、ベッドに二人で入った。いつものように、僕はゆっくりと朱美の服を脱がせた。
 そのとき背後から視線を感じた。背中に意識を集めると、赤い服を着た女が、額縁の中から、僕と朱美の行為をじっと見ているが分かった。
 僕は、時間をかけて朱美を愛撫した。
 背後の額縁の中で、赤い服の女が唾を飲み込んだ気配をはっきりと感じた。赤い服の女が唇を噛みながら、僕と朱美を凝視している。朱美が声をあげると、背後で赤い服の女も息を荒げる。
 僕は、赤い服を着た女の視線に興奮した。
 快感がいつもより深く長く続いた。

 僕は一日中ひとりきりで、自宅のパソコンに向かって仕事をしている。
 目が疲れて休憩を取るときは、豆を挽いて、コーヒーを入れる。ブラックコーヒーを飲みながら、午後の光の中の絵、赤い服の女を見た。
 赤い服の女はコーヒーを飲まない。紅茶が好きだ。シナモンスティックを入れた紅茶。シナモンクッキーも好きだ。
 僕が本を読み始めると、赤い服の女も背筋をすっと伸ばして椅子に座り、読書を始める。悲しい終わり方をする恋愛小説が好きで、涙ぐみながらページをめくる。
 僕はたまに赤い服の女に話しかけてみる。女は口を開かない。黙って、そこにいる。
 雪が降る日のような何もかも飲み込む静寂が部屋を満たす。無音の会話。赤い服の女への愛しさが、僕の心に降り積もる。

 ある日曜日の夜。
 シャワーを終えた朱美がベッドの上に座り、
「ねぇ、音楽、変えて。ジャズは飽きちゃた」
 と、甘えた声で僕に言った。
「彼女はジャズが好きなんだ」
 僕の言葉に、朱美は首をかしげた。
「彼女って、誰?」
 僕は、壁の絵を指さした。
「彼女。赤い服を着た女。彼女は、女性ヴォーカルのスタンダードジャズが好きなんだ」
「何、言ってるの?」
 朱美が眉を寄せる。
 僕は、朱美の顔から、赤い服を着た女に視線を移した。朱美に背を向けて、壁の赤い服の女を見つめながら、話を続けた。
「彼女は和食が大好きだけど、飛び上がるほど辛いカレーも好き。コーヒーより紅茶。服装はシンプル。アクセサリーはつけない。自分の強い個性を自覚しているからね」
 朱美が、背後から僕の腕を掴んだ。
「変だよ。冗談?  何の話をしてるの?」
「だから、彼女の話だよ。赤い服を着た女」
 僕は取り憑かれたように話を続けた。彼女について語りたかった。他の人にも彼女の魅力を知って欲しかった。

「彼女、赤が似合うだろ? 華やかだ。でもね、友達はあまりいないんだよ」
 赤い服を着た女が、額縁の中で頷く。僕は頷き返して、また口を開く。
「映画も本も、恋愛ものが好きだけど、ハッピーエンドは望んでいない。切なくなったり悲しくなったりするのが好きなんだ」
 僕は、赤い服の女の全てを知っている。僕は、彼女に花束を贈った日のことや、一緒に夕飯を食べたことを語った。そして、二人の夜のことも。
「彼女が一番感じる場所は、左の脇腹なんだ。右じゃない。左の脇腹を優しく軽く噛まないとダメなんだ」
 そう言ったとき、泣き声が聞こえて、僕は振り向いた。ベッドの上に座る朱美が、何かに怯えたように、目を見開いて泣いていた。
「変よ。狂ったの? ねぇ、絵なんてないよ。最初から、あの額縁の中は白紙だよ。白い紙だけよ。何も描かれてないじゃない。赤い服を着た女なんて、どこにいるのよ」
 僕は、また背後の壁に目をやる。そこには赤い服を着た女が、ちゃんと居る。
 僕は安堵して、笑う。
 幸せすぎて、笑いが止まらなくなった。
 


⭐︎過去作『魅惑の絵』を改題、大幅に修正しました。
2822文字
 

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