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150年の歴史よりも1000年の伝統

わたしは、地方でジャズをやってます。もちろん、地方都市ではジャズで食っていくことも難しいし、それ以前に私には仕事があるわけで。
ジャズの活動はアマチュアにとどめ、しかしジャズ愛好家の名に恥じぬよう質の高い演奏をしなきゃなあ……と日々過ごしています。

地方でのジャズコミュニティ

私のような同好の士は、どの土地にも一定数います。
出張などで地方都市に赴くと、プレイヤーが集まるジャズのライブハウスは必ずある。そこにいくと、その地方のプレイヤーが集まって演奏しており、大抵は参加させてくれる。
セッションでコミュニケーションして「この人はこの境地に至るまで何時間ジャズに費やしたんだろうか…」とか「ああ自分と同じジャズ好きがこの街に居るのだ…と」思う。感慨深いものです。
どの地方にも、そういう緩やかに開かれたコミュニティがあって、ジャムセッションのような場で交流することが可能です。

ジャズコミュニティの淵源はジャズではない


これってね。
実は、ジャズ特有の話ではなくて。

おそらく日本の「芸事」すべてに共通した形なんだと思います。
例えば、お茶。骨董。
もしくは、囲碁・将棋。
全国津々浦々には同好の士が居て、それぞれネットワークでつながっています。そしてそれぞれ緩やかに開かれた形のオープンコミュニティが各土地にあります。そういうコミュニティの背後にはその土地の有力者や資産家の好事家がいるみたいな構図があります。コミュニティには、その芸事のプロ専業者がいたりして、たいてい地域の教育者も兼ねていますが、別に仕事がある好事家も顔役のようなマネジメントを担っている。

こういう形の根本って、おそらく「連歌」や「俳諧」の世界ではないかと思います。

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句連句といった形式の総称である。
専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。江戸期においては専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。

Wikipedia

例えば、松尾芭蕉の「おくのほそ道」では、道中、何箇所かで地方在住の名士たちに招かれて句会を催したりしています。そうした地方の名士による俳諧のコミュニティが、プロの俳諧師を支援して地方へ文化が浸透するのを援助し、全国津々浦々への文化の伝承に助力していたわけです。

これって、東京のミュージシャンがプチツアーで地方を回る構図と、よーく似ていると思いませんか?

平安時代から都市の「雅び」と田舎の「鄙び」という言葉があります。
田舎は基本的に文化格差の風下にある。
そのため文化の素養が感じられるものについては田舎(現在では地方都市)は真贋問わずありがたがる。悪く言えばそういう側面もありますがね。

ショービジネスとしてジャズが成立していなくても、コミュニティを維持するために演奏が行われているような例も、もちろん沢山あります。この辺も、俳諧・連歌のコミュニティに似ているのかもしれない。

俳諧のやり方に学ぶ?


戦後の復興期や高度経済成長期など「ジャズ」そのものが社会への影響力を強く持っていた時代はともかく、現在、ジャズという音楽は社会的な影響力を持たない音楽の一ジャンルに過ぎません。
そのような状態で数十年経過した現在、地方のジャズコミュニティは、この日本の伝統的な様式美に回帰しつつあるように私には感じられます。

逆にこの因習的なスキームに対して自覚的に活用した方が、地方ジャズ文化を延命できるのではないか?とさえ思ったりします。

例えば、アメリカから「本物」のジャズを移入したり、日本におけるジャズの純度を高め、良質な音楽を提供しさえすればジャズが流行るだろうというのはいささか楽観的すぎるのではないだろうかと思うわけです。

それほど「ジャズ」という音楽は人種や文化を越え普遍的に万人を引きつける力があるのかと。
それは大きな思い上がりで、無いから今ジャズは力を失っているわけで。

音楽ジャンルとしてのジャズの歴史は150年。
しかし、趣味を全国に流通させた我が国の伝統はおそらく1000年くらいあります。我々ジャズ民は、我々の文化的な伝統をもう少し自覚しつつ、ジャズの振興や浸透を考えるべきなのかもしれません。

例えば、リソースをどこに投資するか?
ジャズ文化振興のために投資するというよりは、コミュニティの維持のために投資する、と割り切って考えた方がいいのかもしれない。

イカサマ「ポンニチ」ジャズ文化も捨てたもんじゃない

日本のジャズ文化は、アメリカのそれとは全く違っていて、アメリカのジャズに欠くべからざる重要なエッセンスを欠いているのも事実でしょう。
某人が言うごとくに。

しかし「ホンモノ」に触れればジャズは流行る、日本でジャズが流行るにはホンモノを聞かせればいいんだ、というのは少しずれている。
日本人に受けいれられやすい地方文化形態の「入れ物」(ヴィークル)を用い、ジャズを浸透させる必要があるんじゃないか、と最近は感じています。

寿司だって、日本人が好む寿司とアメリカで好まれる寿司は違います。
その逆で、アメリカ人の「ホンモノのジャズ」と日本で受け入れられる「ジャズ」は違ってしかるべきなのではないか?と思うのですよ。

もちろん私は「アメリカの寿司マニア」のように、日本において「本場のジャズ」に憧れるマニアですから、モノホンのジャズを今後も自分のいる地方できちんと聴きたいと思いますし、そのためには地方のコミュニティを維持しなければいけません。

ただ、世の中の動きが最近は加速しているし、地方の文化基盤自体が空洞化しているのも事実です。どのジャンルの「芸事」も地方コミュニティが維持できなくなる日は近いのかもしれません。


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