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さみしさの海を泳いで

3度、横顔を見つめて
2度、ゆっくりと触れたあと
「ありがとう」と別れを告げて、抱きしめた。

別れには、いつまで経っても慣れない。
特に今日は、「他を生かすため」の選択だったから、なおさらのような気がしている。

アニメとか、ゲームとかの、「生贄をひとり捧げるか、国が焼け滅ぶか」みたいな場面を思い出してしまう。
大袈裟すぎなのはわかっているけれど。

わたしは今日、紫色のラナンキュラスと別れた。
いちばん最初に咲いたそれひとつを、パツンと切って、抱きしめてからゴミ箱に落とした。

別れには、いつまで経っても慣れない。
「もうこの花はどう見ても限界」というところまで傷んでいたり、
「次にはあの花を買おう」と決めていたりすると、開き直れることもある。
でも、今日はそうじゃなかった。

ふたつのつぼみが、無事に開いてきたところだった。
ラナンキュラスを買うと、開花途中のひとつとは別に、つぼみもついてくることが多い。
最近は、つぼみを咲かせることができなかったのだけれど、今回は開いてきていた。
それも、ふたつとも。
しっかりと。

そうなるころには、最初のひとつは傷んでくる。
わたしは花に詳しくないけれど、ひとつのからだで、栄養を分かち合っているのだと思う。
だから、開き切ったひとつを維持しながら、ふたつを咲かせることは、このからだには重たいんじゃないだろうか。
そんな気がした。
最初のひとつとは、もうずいぶん長いときを過ごしたんだ。
花は枯れる。そんなことは、最初からわかっていた。

「花は嫌いだ」と言っていたころを、いまでも覚えている。

多少は、花と接点のある人生だったと思う。
母はピアノ教師で、わたしもピアノ教室に通っていた。
発表会と言えば、お花。
発表会のたびに、母は花を予約して、一緒に取りに行っていた。そんな記憶がある。

実際に自分が花をもらうか、というとそうではなかった。
花をもらうのは先生で、
その花は、発表会のあいだはピアノの上に置かれて、写真撮影のときには先生の膝の上に置かれた。
「花がないと、寂しいから」
母は、そんなことを言っていた気がする。

おとなになって、ピアノを弾いて、花をもらったこともあった。
そのときの花はずいぶん大きくて、いつもどうしていいかわからなかった。
写真を撮ったあと、ライブハウスにそのまま置いてきたことも、何度かある。
あのころのワンルームに飾る場所はなかったし、なんだか分不相応な気がしていた。
冷たくて寒くて誰もいないわたしの部屋にいるより、ライブハウスで誰かに愛でられたほうが、花もしあわせだろうと思って。

なんて言いながらわたしは、
花をお世話する気力とか、その生と死に向き合うことができなかったんだと思う。

「あなたからもらったお花」が枯れてゆくこと
それは、「特別なライブの夜」から遠ざかっているようで、寂しくてたまらなかった。

だから、会社を辞めたときも「花は送らないで」と言っていた。
だって枯れてしまったら、あの場所で過ごした思い出が遠くなってしまうようで。
誰かが嫌いで辞めたわけじゃなかったから。

あの日代わりにもらったのは、ぬいぐるみだった。
ブリザーブドフラワーを抱えたくまのぬいぐるみは、いまでも変わらずわたしの部屋を見守ってくれている。

寂しさ、は強い感情だと思う。
あっというまに、全身を支配する。
溺れて、息ができなくなる。
他のすべての感情を、容易く殺す。

わたしはいつも寂しかった。
旅立つ、そのとき。
学校を卒業するときも、仕事を辞めるときも、引っ越しをするときも、恋人と別れるときも
ほんとうに何かを憎んだことはなかった。

ただ、お別れのときが訪れてしまった。
ほんとうは、寂しくてたまらなかった。

でも、もう知ってしまった。
寂しさが、いちばん強い感情だ。
わたしにとって、これ以上は決してない。
だから、もう決めている。

「寂しさ」を理由に、わたしは決断をしない。

寂しいから、ここにいる。
と、わたしは絶対に言わない。
だってそんなことを言ったら、どこへも行けないし、なんだって捨てられない。
映画の半券だって、もう終わってしまったイベントのチラシだって、めくり終わったカレンダーだって、
わたしはきちんと、愛しているんだから。

少しだけ、寂しさと折り合いがつくようになった。
これは、そういう話だと思う。

そうしてほんの少しだけおとなになったわたしは、違う道を選べるようになった。
出会って、別れること。
共に過ごす時間を、力を込めて愛すること。
「別れが寂しいから出会わない」と、わたしはもう言わなくなった。
それは、別れの寂しさを超越したわけではない、と知りながら。

ラナンキュラスの横顔を、
3度、見つめて
2度、ゆっくりと触れたあと
「ありがとう」と別れを告げて、抱きしめた。

傷んだ部分を少しずつ落としていたスイートピーも、もう限界だと気づいていた。
「ドライフラワーとしても人気」のエリンジュームは、まだまだ平気そうに見えたけれど、ずいぶん短くなってしまった。
わたしは花の水を変えながら、茎を少しずつ落としている。
そうしていると、花が長持ちするそうだ。花屋で働いていた人に教わったおまじないを、わたしはいまでも信じている。

明日か、明後日には花屋に行こう。
次は、赤いアネモネを育てたい、と思っている。


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ありがとう。そばにいてくれて。愛してる。




【title photo】 amano yasuhiro
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