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【往復書簡】 気分がいい日に書く手紙

\\\往復書簡、やってます///

人の話を聞くのが大好きな”めけ”と”ねる”が、あまり話を聞かずに好きなことをおしゃべりするお手紙マガジンです。

▼前回の手紙


 今日は、気分が良い。
 仕事をしていたら気分がよくなってきた。というのは不思議なことであるような気もするけど、「わかるわ〜」と感じるあなたもいると思う。

 あとはどんな仮面をつけていくか。交流会に参加することが決まったのなら自分のキャラを練り上げていくかなぁ。

めけの前回の手紙より

 そう、仮面だと思う。
 仕事をしているときの仮面は、わたしから体力を奪い、気力を与えるような気がしてならない。笑顔で電話に出ていると、なんとなく元気だと錯覚してしまうように。そしてそれは、愛すべきバグなのだと確信している。一生騙され続けたい。

 交流会でしゃべれなかったわたしは、仮面をつけ損ねていたなあ。と反省している。わたしは、常に"自分"で勝負しようとしすぎている。キャラ設定があれば、わたしだって負けなかったと思うのに。本音のあたしが、「いいよ、負けちゃいなよ……今日はおしまい」っていうのに抗えない。というか、抗う気がない。
 でも、なんとなくだけど、めけはわたしのそんなところを面白がってくれているような気がするし、わたしもわたしを嫌いになりきれないし、このまま着脱不自由な仮面と暮らしてゆくのだろうと思う。

 まあきっとそんなことよりも、スタバでマフィン食べたから元気なんだろうな。
 スタバのおやつは美味しいので、ひとつ食べるともうひとつ食べたくなってしまう。本当に勘弁して欲しい。今度、スタバでたらふくおやつを食べさせてください。と思ったけれど、もうひとつ食べたいと思えるから幸福なのであって、多分めけに「好きなだけ頼みなよ」って言われても、ひとつか、せいぜいふたつくらいしか選ばない気がする。
「どれにしようかな」愛を込めてたったひとつ(あるいはふたつ)を選び出す。その瞬間が幸福なのである。


 前回は、涙の話に丁寧にお返事をありがとう。

 涙を流し始めた友人に「涙を流せば、心が落ち着く」と声をかけたとき、「そんなに簡単じゃないのよ。人の涙って」と言われた。怒っていたわけではないけれども、きっと距離感の問題であったのだろうと今はそう思うことにしている。簡単に寄り添うなということなのだろう。確かにそうなのだ。

前回のお手紙より

 この話が好きすぎて、というか、わたしっぽすぎて笑ってしまった。
 めけの目にどう映っているかわからないけれど、わたしの本性はこんな感じだった。家族の前でだけ、このような獣になってしまう(ご友人を悪くいうわけではないのだけれど)。すぐに噛み付く。ガブガブ。
 家族にはすまないなあ、と思うのだけれど。考えるより先に飛び出してしまう本音ってのが、どうしてもあるので仕方がない。

 泣ける、泣いてしまうは感情のリセットに必要なことだ。母が亡くなったときも、涙が出ない自分を俯瞰で眺めながら、泣くのは難しいものだと思ったのだけれども、葬儀に集まってくれた母を恩師と仰ぐ若者の悲痛な叫び——なぜ死んじゃったの? と怒りと悲しみに暮れる姿を見た瞬間、涙が止まらなくなった。泣けて良かった。

前回のお手紙より

 この話にも、なんだか共感した。
「涙が出ない自分を俯瞰で眺めながら」というところに。
 わたしにも、そんな記憶がある。薄情だと何度も思った。それほど大事ではなかったのかな、と。
 実際に大事じゃないことに気づいて、情けなくなったり……
 もちろん、目の前の出来事から置いてゆかれているときもある。

 祖父の葬儀に行けなかった。
 四十九日に帰ったら、祖父は骨になっていた。
 そのことに驚きはしたけれど、泣けなかった。
「あ、リュウジさん、いないンだ……」
 最後まで、おじいちゃんと呼べなかった距離感のその人の死に、泣けなかったことを後悔している。あれは、確かに必要なセレモニーなのだと教えてくれたのは、祖父だった。
 今でも、リュウジさんがいないことは、ちょっと不思議な感じがする。

 そう思うと、涙は記憶と関係しているように思う。
 あのときに泣けていたら、わたしはその記憶を以て勇敢に進めたというか。めけのいうところの「節目」を落とし込む儀式。
「泣くほどつらかった」という言い回しも、「記憶しているよ」という意味合いだろう。
 過去の記憶と交わる、あるいは未来のわたしへの手紙。
 なんていうと、ポエミー過ぎるか。
 結局のところ、涙はバグ。この回答に違いはない。


 いやはや、そんな涙の話よりも!
 めけ、引っ越したのね!

 わたしは、引っ越しが大好き……というのは結果論で、上京してから今の家が8軒目になる。
 男を振ったり振られたりで、騒音で追い出されたり、賃上げに刃向かったりと、わたしなりに必死な事情で引っ越してきた。のだけれど、根本的には引っ越しが好きなのだと思う。
 内見に行くと言われれば、喜んでついて行く。
 あの空っぽのお部屋の希望の匂い。

 良い引っ越しであったことを願っている、というか、これだけ引っ越したけれど、そういえば「悪い引越し」っていうのはなかった。
 最終的に、騒音とか賃上げとか、問題は発生したけれど、そこでの暮らしは悪くなかった。どの家にも、街にも、暖かな思い出がある。
 まだ慣れずにふわふわとしているのも束の間、もうだいぶ落ち着いたのかしら。引越しでしか味わえない感覚ね。

 本当は、数年に一度くらいは引っ越したほうがいい。その通り。
 もっと引越しに関わるお金が少なければそうしたかしら?と考えるけれど、やっぱり引越しは寂しくて、寂しいことは苦手だから、なかなか動かないかも。と思うわたしもいる。

 ただ、「人生を変えるには、家か仕事かパートナーを変えると手っ取り早い」という説を、わたしは今でも信じている。確かにそうだ、と思う。パートナーも数年に一度くらいは変えたほうがいいのかもしれない、というと過激だけれど、わたしの一部はパートナーの影響でできている。
 もし、パラレルワールドがあって、別の男と付き合っていたり、独り身だったりしたら、全然の別人になっただろうと断言できる。
 そしてパラレルワールドのわたしも、振られたら引越したりしてるんだろうな。という気がしてならないのだけれど。

 バッサリ切るほどの髪もないから、引越しがいちばん簡単に生まれ変われる。なんて言ったら、言い過ぎだろうか。
 いや、「いちばん傷つかずに生まれ変われる」でどうだろう。きっとこれな気がする。


▼今までの手紙まとめ


 それじゃ、次の手紙で。
 2024年7月13日 ねる


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