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切なる願いで、生きてゆくこと

「恥ずかしいんだけど」って、言わないように気をつけることにした。
わたしが「恥ずかしい」という枕詞で話し始めてしまうと、同じ境遇の人に「恥ずかしい」という烙印を押すことになってしまうかもしれない、という危険性に気がついたからだ。

だから、何事もない顔で近況報告をするけれど、1週間ほど会社に行けていない。
正直、恥ずかしいと思う気持ちもあるし、不幸自慢と思われてしまっても仕方がない。
でもこれは、近況報告なのだ。
そして、友達がしんどいときには「休め」と言いたい。何も考えるな、と。

でも、わたしは考える。
「自分で自分の生活費を捻出(或いは、生活費の対価の労働を)できないのに生きている意味はあるだろうか」とか、もう500回くらい考えた。
意味は、ある。
生きていて欲しい、という人はたくさんいる。
生きていて欲しい、という人には休んで欲しい。
そして、盛大なる無責任さと愛を持って、「休んで」と言う。

労働ができなければ、お金が必要なのだ。
或いは、無償で暮らせる屋根が必要。
そして、それを提供してくれる別の人間が必要なのだ。

「生きているだけでいい」というのは、きれいごとである。
というのが、結論だった。
わたしは、残酷すぎるだろうか。

先のことを考えると、気が滅入るばかりだ。
いつになったら、息を切らさず外を歩けるようになるのだろう。
風邪みたいに、時間経過で治ればいいのに、”持病”というやつは、具合を行ったり来たりするから厄介だ。
そう、「上手く付き合っていく」ってヤツ。
なかなか難しい。

先のことは、未来のわたしがナンとかしてくれるはずだ。
問題が、”マジで”発生したときに考えればいい。今のは杞憂だ。
実際、家賃が払えなかったことは一度もない(ありがとうお母さん)
でもずっと、家賃が払えなくなったらーーーそれは、このさきの何週間も仕事ができなかったらどうしよう、という不安だった。
集中すれば頭痛が、身体を動かせば息切れがするので、もうアニメばっかり見ちゃうよ。
ただ、未来のわたしのほうが健やかな状態であるか保証がないので、それについて考えちゃうと、やっぱり不安になったりしちゃうけれど。
人生は、どんなフェーズでも、適切な不安が襲いかかってくるものなのだ。

この1週間、一度だけ母親と電話をした。
話を、たくさん聞いてもらった。
この年になっても母に甘えるなんて恥ずかしいーーーああ、また言っちゃった。
恥ずかしくないよね。「仲良い親子だね」って言ってもらおう。

あとは、会社に行き損ねたとき、ドトールで隣のおばあちゃんに話しかけられた。
ブラインドの開け方を聞かれて、「ヤバッわたしもわかんない!」思ったけど、ごちゃごちゃやってたら開いた。
ブラインドって難しすぎる。
「ありがとう」と、おばあちゃんは言った。
わたしの祖父母は、みんなもういない。
代わりに、誰かのおばあちゃんにやさしくすることで、心がぽわっと明るくなる気がした。

薬局でティッシュを持ってレジに並んでいたら、またおばあちゃんに話しかけられた。
「それ、安かった?」
値段はあんまり見てなかったけど、安いコーナーにあったやつだ。
「たぶん、安いと思いますよ」
「それ、200枚のやつよね? わたしこのあいだ160枚のやつを買っちゃって…」
「わかります! 160って、すぐなくなりますよね!?」
具合が悪いのに、妙にテンションが上がってしまった。
別に誰にも言わないこだわりだったけど、ティッシュは200枚にこだわっている。
160とか、180とか、すぐなくなって、変えるのも買い足すのもめんどくさい。
面倒事っていうのは、もっといかんともしがたいときに使いたいものだ。
少なくとも、ティッシュやトイレットペーパーに対しては、使いたくない感情だった。
まさか、こんなところで共感してもらえるとは…
わたしはほくほくと、帰路に着いた。
なんだか、とても嬉しい。

あとは病院の予約をした。
今日は観てもらえないらしい。
「あとで時間を電話しますね」と言われて、「ありがとうございます」と頭を下げた。
帰り際に、「気をつけて帰ってくださいね」と言われた。
わたしが息が上がっていたからか、今日の診察ができなくて申し訳ないという気持ちだったのか、定型文なのか、たぶん全部だと思うけど、なんだか嬉しかった。
だって、言わなくてもいいせりふで、やさしいせりふだったから。

「言葉はね、タダだから言っておきなさい」

母が言ってくれたのを思い出す。
これだけ言うと、なんだか最低な母親のような気がしてしまうけれど、「ありがとう」「気をつけてね」なんていうと、自分もやさしい気持ちになる。
そして相手も、悪い気はしないものだ。
母は、そういうことを伝えようとしてくれていたのだ。
気持ちよく、時間を過ごす、ということについて

これが、わたしの近況のすべてだ。

あとは、帰ってきた同居人と少し話す。
最近は、八つ当たりしてしまう回数が増えたーーーと思う。

八つ当たりというか、こちらは具合が悪い。
気弱で、アタマが回らなく、他人に対する親切な気持ちが、ひゅうんとしぼんでしまうのだ。
それを、「恥ずかしく情けないこと」と自覚しながら、「不可抗力だ」とも自覚している。
どうしようもない。と、思ってもいいだろうか。言い訳だろうか。

とにかく、ごめん。
何度も失敗して、何度も「ごめん」と言う。
毎日働いて、帰りも遅くて、わたしは最近家事もあまりできなくて、情けないばかりで
話を聞いてもらうばかりで、相手の近況なんてほとんど知らずで、一緒に住んでいる意味があるのだろうかと思うのだけれど、「意味は自分で決める」と、君は言っていた。
それはきっと、昔のわたしが、君に言ったせりふだろうな、と思う。

仕事はリモートで、日に数時間ずつ稼働している。
いつ出社できるかもわからないわたしに、「無理しなくていい」「大変だと思うけど、身体を第一にね」と気遣ってくれて、本当に有り難い。
何もしないと自己肯定感も下がるし、収入もヤバイ。
そのことを、社長もみんなもわかっているから「自己判断で」そして「できない分はなんとかするから大丈夫」と言ってくれている。

甘えることを、やっぱり「恥ずかしい」と思う自分もいたけれど
「辞めないでくれたら助かる」と言い続けてくれた言葉を、信じることにする。
ここで信じないだなんて、そんなのは不義理過ぎる。
不義理、ということを、わたしは嫌っている。

今日は日中、どうしても動けなくて、夕方から可動した。
今日締切の業務に、みんなが手をつけているようで、スプレッドシートの内容が少しずつ更新されていた。

途中で、意味のわからないメモを見つけて、少し固まった。
ああ、会社に電話しようか、チャットワークで質問をしようか
いや、先を見越してできるところまで準備を進めておこうか、と考えていたら、セルが動いた。

「7月分は、旧ファイルを規定値で編集してください」

たった、たったそれだけだった。
それだけで、会社にいる中川さんの声が聞こえてきた気がした。
「辞めないでくれたら助かる」「言いたいことはなんでも言って」「無理しないでね」
そう言い続けてくれた、中川さんの声。
会社ではいつも「忙しいとこごめんね」「いま大丈夫?」と気遣ってくれる、中川さん。
そして、わたしの疑問に対する晴れやかな回答。

ああ、
唐突に理解した。

わたしはずっと、
ずっと”人”のやさしさに救われてきたんだ。
わたしがいままで「大丈夫」だったのは、誰かが「大丈夫」って言ってくれたからなんだ。

あるいは、
どうしようもない話で笑わせてくれたり
黙って話を聞いてくれたり
解決方法を考えてくれたり
傷跡を一緒に抱えてくれたり
黙って、目の前でコーヒーを飲んでくれたり

ただ、ただそれだけで救われてきた。

わたしの「大丈夫」は、
ずっと、誰かに与えられたものだったんだ。

すとん、と腑に落ちた。

最近元気がないのは具合が悪いからで、家に籠もっているからだと思う。
なかなか、友達を呼び立てたり、お茶に出掛けたりするのは難しいかもしれないけど、
用がなくても、ツラくなくても、友達に電話しよう。

ついつい、「まだ大丈夫」と思ってしまう。
何事にも。
まだ身体は動く、まだ電話をするほどじゃない、まだ、まだ……
そうやって何度、間違えてきただろう。
何度、無理をしただろう。
未だに、「無理」と「手前で止まる」の違いもわからないまま

身体のためを思ってリモートにしていたけれど
もう少ししたら、心のためを思って、会社に行こう。
みんなと、他愛のない話をしたい。
誰かのダイエットの話とか、取引先のイケメンの話とか、お土産のお菓子の話とか

最近、ようやく手紙を書けるようになった。

最後の手紙を書いたのは4月で、4月生まれの友達のために、無理をして書いた。
アタマがまわらなくて、なにを書いたのか全然わからなかった。
でも、誕生日プレゼントをこれ以上遅らせたくない、という気持ちで、あれが最後だった。

また、手紙を書こうと思う。
あなたの声が聞こえなくても
あなたのためを思う手紙は、十二分にわたしを勇敢にさせるのだ。

未来のわたしへ

どうか、今日のことを忘れずにいて欲しい。
さすがに、こんな天才的な気付きは忘れないと思うけれど

わたしを救ってくれたのは、音楽と人だった

そう思ったこともね、いまもよおおおく覚えていますよ。
おそらく、2014年ころだったのではないだろうか。
絶望したときにね、ライブハウスのバーカウンターに立たされてね、そう思ったよね。
いちばんしんどいからさ、もう誰の曲も聞きたくないし、誰とも話したくない、わたしは誰にも何にも、励まされたくなかったのだけれど
「お客さん少ないから、ちょっと客席行ってきてよ」って言われたあの日の光に、たくさん救われたね。
ああ、間違っていなかったよ。

人は、人を傷つける。
ひとりでいたら、これ以上”誰かに”傷つけられることはないだろう。

でも、自分自身を救うには限界がある。
わたしは(そしておそらくみんなも)、他人に対して使えるやさしさを、自分自身にはうまく使えない。

「生きていて欲しい」というのは、切なる願いだった。
例えあなたに、屋根や暮らしを与えることができなくても
いや、もし「欲しい」と言うならば、わたしの持ち物だったら持っていて欲しい。

だから、わけてもらうんだ。
だから、わけてあげるんだ。
だから、人と関わってゆくんだ。

だから、
もう少し元気になったら、この部屋を出ようと思っている。
その決意ひとつで、もうしばらく大丈夫だ、と思っている。



【photo】 amano yasuhiro
https://note.com/hiro_pic09
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