切なる願いで、生きてゆくこと
「恥ずかしいんだけど」って、言わないように気をつけることにした。
わたしが「恥ずかしい」という枕詞で話し始めてしまうと、同じ境遇の人に「恥ずかしい」という烙印を押すことになってしまうかもしれない、という危険性に気がついたからだ。
だから、何事もない顔で近況報告をするけれど、1週間ほど会社に行けていない。
正直、恥ずかしいと思う気持ちもあるし、不幸自慢と思われてしまっても仕方がない。
でもこれは、近況報告なのだ。
そして、友達がしんどいときには「休め」と言いたい。何も考えるな、と。
でも、わたしは考える。
「自分で自分の生活費を捻出(或いは、生活費の対価の労働を)できないのに生きている意味はあるだろうか」とか、もう500回くらい考えた。
意味は、ある。
生きていて欲しい、という人はたくさんいる。
生きていて欲しい、という人には休んで欲しい。
そして、盛大なる無責任さと愛を持って、「休んで」と言う。
労働ができなければ、お金が必要なのだ。
或いは、無償で暮らせる屋根が必要。
そして、それを提供してくれる別の人間が必要なのだ。
「生きているだけでいい」というのは、きれいごとである。
というのが、結論だった。
わたしは、残酷すぎるだろうか。
◆
先のことを考えると、気が滅入るばかりだ。
いつになったら、息を切らさず外を歩けるようになるのだろう。
風邪みたいに、時間経過で治ればいいのに、”持病”というやつは、具合を行ったり来たりするから厄介だ。
そう、「上手く付き合っていく」ってヤツ。
なかなか難しい。
先のことは、未来のわたしがナンとかしてくれるはずだ。
問題が、”マジで”発生したときに考えればいい。今のは杞憂だ。
実際、家賃が払えなかったことは一度もない(ありがとうお母さん)
でもずっと、家賃が払えなくなったらーーーそれは、このさきの何週間も仕事ができなかったらどうしよう、という不安だった。
集中すれば頭痛が、身体を動かせば息切れがするので、もうアニメばっかり見ちゃうよ。
ただ、未来のわたしのほうが健やかな状態であるか保証がないので、それについて考えちゃうと、やっぱり不安になったりしちゃうけれど。
人生は、どんなフェーズでも、適切な不安が襲いかかってくるものなのだ。
この1週間、一度だけ母親と電話をした。
話を、たくさん聞いてもらった。
この年になっても母に甘えるなんて恥ずかしいーーーああ、また言っちゃった。
恥ずかしくないよね。「仲良い親子だね」って言ってもらおう。
あとは、会社に行き損ねたとき、ドトールで隣のおばあちゃんに話しかけられた。
ブラインドの開け方を聞かれて、「ヤバッわたしもわかんない!」思ったけど、ごちゃごちゃやってたら開いた。
ブラインドって難しすぎる。
「ありがとう」と、おばあちゃんは言った。
わたしの祖父母は、みんなもういない。
代わりに、誰かのおばあちゃんにやさしくすることで、心がぽわっと明るくなる気がした。
薬局でティッシュを持ってレジに並んでいたら、またおばあちゃんに話しかけられた。
「それ、安かった?」
値段はあんまり見てなかったけど、安いコーナーにあったやつだ。
「たぶん、安いと思いますよ」
「それ、200枚のやつよね? わたしこのあいだ160枚のやつを買っちゃって…」
「わかります! 160って、すぐなくなりますよね!?」
具合が悪いのに、妙にテンションが上がってしまった。
別に誰にも言わないこだわりだったけど、ティッシュは200枚にこだわっている。
160とか、180とか、すぐなくなって、変えるのも買い足すのもめんどくさい。
面倒事っていうのは、もっといかんともしがたいときに使いたいものだ。
少なくとも、ティッシュやトイレットペーパーに対しては、使いたくない感情だった。
まさか、こんなところで共感してもらえるとは…
わたしはほくほくと、帰路に着いた。
なんだか、とても嬉しい。
あとは病院の予約をした。
今日は観てもらえないらしい。
「あとで時間を電話しますね」と言われて、「ありがとうございます」と頭を下げた。
帰り際に、「気をつけて帰ってくださいね」と言われた。
わたしが息が上がっていたからか、今日の診察ができなくて申し訳ないという気持ちだったのか、定型文なのか、たぶん全部だと思うけど、なんだか嬉しかった。
だって、言わなくてもいいせりふで、やさしいせりふだったから。
母が言ってくれたのを思い出す。
これだけ言うと、なんだか最低な母親のような気がしてしまうけれど、「ありがとう」「気をつけてね」なんていうと、自分もやさしい気持ちになる。
そして相手も、悪い気はしないものだ。
母は、そういうことを伝えようとしてくれていたのだ。
気持ちよく、時間を過ごす、ということについて
◆
これが、わたしの近況のすべてだ。
あとは、帰ってきた同居人と少し話す。
最近は、八つ当たりしてしまう回数が増えたーーーと思う。
八つ当たりというか、こちらは具合が悪い。
気弱で、アタマが回らなく、他人に対する親切な気持ちが、ひゅうんとしぼんでしまうのだ。
それを、「恥ずかしく情けないこと」と自覚しながら、「不可抗力だ」とも自覚している。
どうしようもない。と、思ってもいいだろうか。言い訳だろうか。
とにかく、ごめん。
何度も失敗して、何度も「ごめん」と言う。
毎日働いて、帰りも遅くて、わたしは最近家事もあまりできなくて、情けないばかりで
話を聞いてもらうばかりで、相手の近況なんてほとんど知らずで、一緒に住んでいる意味があるのだろうかと思うのだけれど、「意味は自分で決める」と、君は言っていた。
それはきっと、昔のわたしが、君に言ったせりふだろうな、と思う。
◆
仕事はリモートで、日に数時間ずつ稼働している。
いつ出社できるかもわからないわたしに、「無理しなくていい」「大変だと思うけど、身体を第一にね」と気遣ってくれて、本当に有り難い。
何もしないと自己肯定感も下がるし、収入もヤバイ。
そのことを、社長もみんなもわかっているから「自己判断で」そして「できない分はなんとかするから大丈夫」と言ってくれている。
甘えることを、やっぱり「恥ずかしい」と思う自分もいたけれど
「辞めないでくれたら助かる」と言い続けてくれた言葉を、信じることにする。
ここで信じないだなんて、そんなのは不義理過ぎる。
不義理、ということを、わたしは嫌っている。
今日は日中、どうしても動けなくて、夕方から可動した。
今日締切の業務に、みんなが手をつけているようで、スプレッドシートの内容が少しずつ更新されていた。
途中で、意味のわからないメモを見つけて、少し固まった。
ああ、会社に電話しようか、チャットワークで質問をしようか
いや、先を見越してできるところまで準備を進めておこうか、と考えていたら、セルが動いた。
◆
たった、たったそれだけだった。
それだけで、会社にいる中川さんの声が聞こえてきた気がした。
「辞めないでくれたら助かる」「言いたいことはなんでも言って」「無理しないでね」
そう言い続けてくれた、中川さんの声。
会社ではいつも「忙しいとこごめんね」「いま大丈夫?」と気遣ってくれる、中川さん。
そして、わたしの疑問に対する晴れやかな回答。
ああ、
唐突に理解した。
わたしはずっと、
ずっと”人”のやさしさに救われてきたんだ。
わたしがいままで「大丈夫」だったのは、誰かが「大丈夫」って言ってくれたからなんだ。
あるいは、
どうしようもない話で笑わせてくれたり
黙って話を聞いてくれたり
解決方法を考えてくれたり
傷跡を一緒に抱えてくれたり
黙って、目の前でコーヒーを飲んでくれたり
ただ、ただそれだけで救われてきた。
わたしの「大丈夫」は、
ずっと、誰かに与えられたものだったんだ。
◆
すとん、と腑に落ちた。
最近元気がないのは具合が悪いからで、家に籠もっているからだと思う。
なかなか、友達を呼び立てたり、お茶に出掛けたりするのは難しいかもしれないけど、
用がなくても、ツラくなくても、友達に電話しよう。
ついつい、「まだ大丈夫」と思ってしまう。
何事にも。
まだ身体は動く、まだ電話をするほどじゃない、まだ、まだ……
そうやって何度、間違えてきただろう。
何度、無理をしただろう。
未だに、「無理」と「手前で止まる」の違いもわからないまま
身体のためを思ってリモートにしていたけれど
もう少ししたら、心のためを思って、会社に行こう。
みんなと、他愛のない話をしたい。
誰かのダイエットの話とか、取引先のイケメンの話とか、お土産のお菓子の話とか
◆
最近、ようやく手紙を書けるようになった。
最後の手紙を書いたのは4月で、4月生まれの友達のために、無理をして書いた。
アタマがまわらなくて、なにを書いたのか全然わからなかった。
でも、誕生日プレゼントをこれ以上遅らせたくない、という気持ちで、あれが最後だった。
また、手紙を書こうと思う。
あなたの声が聞こえなくても
あなたのためを思う手紙は、十二分にわたしを勇敢にさせるのだ。
◆
未来のわたしへ
どうか、今日のことを忘れずにいて欲しい。
さすがに、こんな天才的な気付きは忘れないと思うけれど
そう思ったこともね、いまもよおおおく覚えていますよ。
おそらく、2014年ころだったのではないだろうか。
絶望したときにね、ライブハウスのバーカウンターに立たされてね、そう思ったよね。
いちばんしんどいからさ、もう誰の曲も聞きたくないし、誰とも話したくない、わたしは誰にも何にも、励まされたくなかったのだけれど
「お客さん少ないから、ちょっと客席行ってきてよ」って言われたあの日の光に、たくさん救われたね。
ああ、間違っていなかったよ。
◆
人は、人を傷つける。
ひとりでいたら、これ以上”誰かに”傷つけられることはないだろう。
でも、自分自身を救うには限界がある。
わたしは(そしておそらくみんなも)、他人に対して使えるやさしさを、自分自身にはうまく使えない。
「生きていて欲しい」というのは、切なる願いだった。
例えあなたに、屋根や暮らしを与えることができなくても
いや、もし「欲しい」と言うならば、わたしの持ち物だったら持っていて欲しい。
だから、わけてもらうんだ。
だから、わけてあげるんだ。
だから、人と関わってゆくんだ。
だから、
もう少し元気になったら、この部屋を出ようと思っている。
その決意ひとつで、もうしばらく大丈夫だ、と思っている。
スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎