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ガソリンを入れる、コロッケを揚げる

夏には少し早いけれど

夏は夜、だと思う。
高校生で、初めて枕草子を読んだときは感動した。
春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。
ああ、まったくその通りだ。

春になったら使い倒そうと思っていたバルコニーは、早々に午後の日差しに焼かれてしまった。
極端に、暑いか寒かで、なかなか快適には使えないなあ、と思っていたけれど
この季節の夜。
夕暮れの、少しあと。
太陽の残り香と、デスクライトで照らされたバルコニーの幸福たるや。

仕事が終わって、体力が残っているそのときには
折りたたみのチェアとテーブルを、バルコニーに投げ出す。
コーヒーと本を持って、椅子に深く、深く沈む。
好きな音楽を、うすうく流す。
イヤフォンもヘッドフォンもせず、iPhoneのスピーカーから、ほんのりと流す。やらかい音質を気に入っている。

そして今日は、コロッケだ。

引っ越して数ヶ月経つけれど、駅の、家と反対側にーーーアレ、なんて言うんだろう。
コロッケ屋? 揚げ物屋?
あ、ちがう。たしか「惣菜屋」という看板を見つけた。
近づいてみたら、カツとかコロッケが売っていた。

ああ、コロッケ。
わたしはこの世界で、コロ助の次に、コロッケを愛していると思う。
おかずのコロッケもいいけれど、おやつのコロッケは尚良い。
ひとつだけ買って、これは「おやつコロッケ」に任命する。男爵コロッケ。

このあと晩ごはんを食べるわけだけれど、おやつコロッケは許される。
もうわたしはおとなだから、好きな時間におやつを食べていいのだ。

本をめくって、コロッケを頬張る。
ああ、幸福ってのはここにある。
この街と、バルコニーと、本と、夏の夜と、コロッケの中にある。
確かに、ある。

そして、その風は、17歳のわたしを連れてきた。

17歳のとき、ガソリンスタンドでアルバイトをしていた。
進学校で、アルバイトは禁止で、わたしは生徒会長だったのに、結構堂々とアルバイトをしていた。
私立の高校で家から離れていたから、バレる心配は皆無且つ、そのガソリンスタンドは知り合いのお店だった。
3人で切り盛りしているガソリンスタンドは、夏のあいだにみんなが順番に夏休みを取る。
人手が減るので、高校生のアルバイトを補充して、とりあえず給油と店番だけやってもらおう。ということだったと記憶している。
わたしは、車に興味はないし、車の免許を持っていないけれど、おかげでさまで給油だけはできるようになってしまった。

あの夏は、なかなか忙しかった。
一応進学校の、賢くないほうの学科で、夏休みは毎日3時間だけ授業があった。
授業の帰りにガソリンスタンドに寄って、アルバイトをする。というのがルーティンだった。
時給は800円とかそれくらいの時代に、10万円くらい稼いで、学校にも行っていたのでけっこうガンバっていたと思う。

体力のないわたしは、家に帰るとへとへとで、あのとき初めて父親の気持ちを理解したものだった。
帰ってきて、飯のある有り難さと、「俺は働いてきたんだぞ」みたいな、妙な免罪符。
そして夜はもう何もしたくない。部屋に込もって、自分の時間だ。

わたしは、父親が好きではなかった。
血が繋がっているとは思えない、顔も似ていないし、理解し難い生き物だった。
でもあの夏、理解してしまった。
ああ、働くってこういうことか。

同時に、「こんなふうにはなりたくない」と思った。
毎日ガソリンを入れて、疲れて眠る。
その暮らしはまるで、人生を摩耗するみたいだ。と思った。

あそこで働いている人のことが、好きだった。
父と祖父は大工で、物を作る仕事ってのも、すげえと思う。
でも、違うと思った。
わたしはたぶん、カタチにならないものーーー小説とか音楽とか、そういうものを作って暮らすことを、夢見ていたのだと思う。

35歳のわたしは、バルコニーで男爵コロッケを齧る。
わたしは、音楽でも文章でも、お金を稼ぐ道を選べなかった。
信じられないくらい凡人で、そのことをうまく認められなかった。
言い訳も努力もうまくできず、平凡の波に抗いながら溺れているような暮らしをしている。

春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて
時折、その美しさを抱きしめて、蹴り飛ばして、救われて、なんとか呼吸をしているだけの生き物だった。

男爵コロッケがうまい。
このあいだ食べた、牛肉コロッケもうまかった。

食べることは、生きることだ。
落ち込んでも、食べる。
そして、食べるものをーーーこんなに美味しいコロッケを毎日揚げているとしたならば
仮に、夜は疲れて何もできなくて、家では二度と揚げ物なんて食べたくない、と叫んだとしても
人を生かす、食べ物をつくる。
コロッケを揚げる人生というのは、きっと、すごく、とてつもなく尊い。

いまならわかる。
ガソリンを入れることも尊い。
ガソリンがなければ、人間は、車は、遠くへ行くことができない。
ガソリンって、人間にとってのコロッケみたいなものではないか。

うちの車は、あのガソリンスタンドが閉店するまで、ずうっとあそこで給油してもらっていた。
少しおしゃべりして、元気になって。
ついでに、車も元気にしてもらって。

あのガソリンスタンドは「初めてのアルバイト先」だったけれど、
お店のみんなは、わたしの成長を見守ってくれていたのだと思う。
そういう、いつもの、帰る場所の、安心する場所のひとつだった。

いまならわかる。
いまなら言える。
ガソリンを入れる人生は、人々の助けとなり、安心を与える日々は
その仕事は、とても尊い。

いまならわかる。
すべての仕事は、感謝のうえに成り立っている。
自分ができないことを、誰かにやってもらって、対価にお金を払う。

みんな、役に立たないことにお金を払いたくはないので、お金が動いて仕事になっている以上、すべての仕事に価値がある。
そして、価値に上下はない。

今日、このあいだ請求した123,825円の入金があった。
会社のシステムに則って請求した金額なので、わたしの仕事の対価ではないのだけれど、感謝と対価で、確かに動いたお金だった。

稼いだお金で、映画を観て帰ってきた。
チケット代と、コーヒー代で、約2時間の給料が映画館に吸い込まれていった。
それは、良い映画と、必要なコーヒーへの対価だった。
ありがとう。また次も頼むよ。

生きていくって、そういうことだった。
そういうことだなァ、と思うたびに
わたしはわたしで、これからどんなふうに世の中と関わって、お金を稼いでいったらいいんだろう。と考える。

答えはまだない。いい年なのに、と思うと少し恥ずかしいけれど。
恥ずかしいことの何がいけないんだ、考えることを辞めてしまうよりはわたしらしくてよいのだ。と開き直れるようにもなった。

そして今日、
ガソリンスタンドで働いていたあの日のわたしを少しだけ肯定できたことを
これからも忘れずに、生きてゆこうと思っている。


【photo】 amano yasuhiro
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