遠い影
口内炎が治った。
治った、というよりも、正しくは“峠を越えた”というところだろうか。
数日前まで、何をしなくてもズキズキと痛い状態が続いていたのと比べると、ずいぶんと良い。
いま、タリーズで飲んでいる出来立てのコーヒーは染みるけれど、朝自分で淹れたコーヒーは染みずに飲めた。ごはんだってもう、おどおどせずに食べられる。どん兵衛の、お揚げの“ジュワッ”に涙目になっていたことも、もう懐かしい。
治ってきている。確かに、回復に向かっている。そしてこれから悪くなることも、きっとないだろう。
「これから悪くなるんじゃなかろうか」という、先の見えない不安に怯えていた。最初は「アー、噛んだトコ、傷になってるなあ」くらいに思っていたいたのに。傷になって、白く膨れて、4日経つまでは毎日痛みが増していって、そのまま6日目までは涙目で過ごしていた。
今日が7日目。口内炎は治るのに1〜2週間って書いてあったけど、信じたい気持ちと、信じられない気持ちがせめぎ合っていた。
これ以上、せめて心は傷つきたくないから「もっと痛くなるかもしれないぞ」とか「しばらくこのままかもしれないぞ」という、絶望の箔押しをしておいた。これ以上の最悪が訪れても、立ち続けることができるように。
吉本ばななさんのデビュー作「キッチン」は、今でもわたしの本棚に佇んでいる。何度引越しをしても、男と別れても、仕事を辞めても、二十代から三十代になっても、本棚にずっとある。
「ムーンライトシャドウ」という短編がすごく好きで、あの橋のことは今でもときどき思い出す。
好きなシーンというか、いまでも思い出せることのひとつとして、
高熱を出した主人公に「風邪は、いちばん悪くなって、そのあと治ってゆくのがいい」と語る場面がある。
あの頃のわたしは高熱を出したこともあまりなく、喘息も中耳炎もいつものことで、偏頭痛は否応なく訪れるし、痛みの頂点もよくわからない。
風邪、というものは、そういうものなのだろう。きっとそうだ、と思った。ぐんぐんと悪くなって、ある一点を越えたらそこまで。あとは静かに、時間と共に回復へ向かってゆく。
確か、あのシーンではそういう暗がりの中の希望を、あるいはただその事実を、伝えようとしていたのだと思う。
今でも、わたしの心を灯している。大丈夫、いちばん悪くなったら回復する、と。
あれからおとなになったわたしは、「次第に回復しない怪我や病気」を経験した。
身体の“悪さ”というものは、デクレッシェンドして次第に消滅する。それこそ風のようなものを想像していたのだけれど、“悪さ”によっては、昨日より今日のほうが具合が悪かったり、今日より1ヶ月後のほうがひどい有様だったりすることがある。ということを知った。認めるしかなかった。
怪我や病と「付き合ってゆくしかない」と言われたときにはじめて、果てのない痛みを背負ってゆかなければいけないことを知らされた。
恋人と別れたあと、「大丈夫! これ以上の不幸はないよ」と言われたあと、怪我をしてピアノ弾きの右手を失うことにもなった。
物事は、デクレッシェンドのように都合よく収束しない。そんなときもあると、いまは知っている。
いまでも、風邪のようにすべてが消滅すればいいと思う。
いいことは消えないで欲しいけれど、嫌なことをぜんぶ消してくれるならば、代わりに良いことも消えたっていい。
思い出せなくても、「あったこと」はなくならないから。
口内炎は、あと3日もすれば消えるだろう。
それから3日も経たないうちに、口内炎があったことも忘れて、「噛まないように気をつける」という気持ちも消滅して、またいつか、口ちびるの裏を噛んで、傷を作るだろう。
わたしはそうして、繰り返してゆく。
それでも、口内炎はなくなる。
そうして、わたしが今抱えている悩みや痛みも、消えてゆくのだろうか。口内炎みたいに。子供のままじゃいられないみたいに。また唇の裏を噛んでも、次の悩みが来ても、寂しくても、また今よりつらい痛みが襲ってきたとしても、抱えなければいけない痛みが増えたとしても。
消えてゆくものがある。
その事実がひとつ、わたしの明日を、頼りなげな足元を、ぼんやりと照らしている。
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