思い出の灯火
生きてゆくということは、死ねない理由が増えることだ。
この、ダーク過ぎる前向きな言葉は、10代の終わりか、二十歳くらいのときに、わたしの中から剥がれ落ちた。
いま思えば、死ぬ、というよりも
「投げやりになれない」という言葉のほうが、適切だったかもしれない。
もういいや、
ぜんぶやめちゃおう
当たり前の呼吸すら見失い、立ち尽くす。
そんな夜が、幾度となく訪れていた。
それは、絶望的な出来事を引っ提げてというよりも、
なんだか急に、酸素が薄くなって、立っていられなくなるような感覚だった。
昨日まで大切にしていたものを、今日は抱きしめていられなくなる。
捨ててしまえ、と思うたび
わたしは、この言葉を思い出していた。
「じゃあまたね」と交わした言葉。
「また一緒にやろうね」と笑顔で手を振った夜。
「だいじょうぶだよ」と背中を叩かれたこと。
そういう記憶が積み重なって、
わたしはそのひとつずつを、最後まで裏切ることができない。
わたしという個人のエネルギーが不足しているとき、
友達とか、思い出のチカラを借りて、なんとか生き延びてきた。
*
「この曲、懐かしいよね」と言われたとき、わたしは息が止まるかと思った。
わたしはこの曲を、友達に教えてもらった。
いまでも、iTunesに入っている。
細かいことは覚えていないけれど、「アイツからCDを借りたんだ」と、確信している。
この曲、と言えばアイツだった。
それなのに、信じられないくらい「この曲にまつわる鮮明な思い出」が出てこない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
共に過ごした、時代なのだと思う。
大学生の頃。
明け方まで語らった部屋、
終電をなくして歩いた夜
話したことの大半は覚えていない。
そういえば君は、食パンの袋を留めるやつ…あれ、なんて言うんだろう。あれを、集めたりしていなかったっけ?
すべてが懐かしかった。
あたたかな光が灯るようだった。
それは、信じられないくらいのやさしい光だった。
光は、年々やさしくなる気がする。
もう、「あの頃に戻りたい」とは思わない。
「あの頃のほうがよかった」とも思わない。
思い出は思い出として、きちんと箱にしまわれている。
ときどきこうやって、箱を開けて、抱きしめる。
抱きしめたあと、わたしは毅然と背を伸ばす。
目の前に転がるいくつかの不安は、やさしい光に焼かれてゆく。
そうしてわたしは、照らされた道を歩き出す。
げんきだよ、と何度もつぶやく。
わざわざ「元気?」と、連絡することはなくても。
今日、君を思い出している。
君がすこやかでいてくれたら、嬉しいよ。
わたしは、あなたが照らしてくれた道を
今日も、元気に歩いています。
※友達が懐かしい曲を歌ってくれていて、少し泣いた
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