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対岸のグレイ

母親に電話をした。
用がなくても、時々電話をする。

「そういえば、台風は大丈夫だった?」

こっちのほうでは大したことがなかったけれど、静岡ではなにやら大変なことになっている。とニュースで見た。
わたしはいまでも、生まれ育った静岡という町の地形とか、位置関係がわからない。
東京で道とか、電車の乗り換えを尋ねられたほうがよっぽど説明できると思う。

だから、避難勧告が出ていたのが母の家の近くなのかとか、そういうことはわからない。
そのうえ調べるのも面倒だから電話でもするか、と思って留まった。
そういえば、今は兄があっちに行っているんだった。
じゃあ心配することないや。
なんて思ったのは、昨日の出来事だった。

「平気だったけどね、どこへも行けなかったよ」
せっかく兄が来ていたのに、とは言うけれど
「べつにどこへ行くつもりでもないんでしょう?」
「そりゃあそうだけど」

そりゃあそうなのに、兄は律儀に静岡に帰る。
長期休みには、必ず。

わたしは、流行病の影響もあって、もう何年も帰っていない。
「もう何年も帰っていない」というのを、何年も繰り返している。
前に帰ったのは祖母の四十九日で、その前は従姉妹の結婚式だった気がする。

「何をするわけでもないのに、えらいよねえ」と、母は言った。

確かに、えらい。
というか、正直助かっている。
なんだかこれは、理由のない不思議な感覚なんだけど
たったひとりの兄が、律儀に故郷に帰ってくれて「助かっている」と思っているわたしがいる。

わたしには「顔を見せろ」とか、「結婚」「子供」とか言ってくる親族はいない。
(いない、と思わせてくれるように母や兄が計らってくれているかもしれないけれど、それすらも知らない)
だから別に、親族に対する義理のようなものはないのに
それでも、兄の行動は「助かってる」と思ってしまうのは本当に不思議だ。
なんだか妙な洗脳みたい。

「でもさァ」
わたしはのんびりと
でも、はっきりと口を開く。

「そっちに帰らないアタシが、えらくないってわけじゃないと思ってるよ」

そしたら母親は、「そりゃあそうだよ」とのんびりと
でもやっぱりはっきりと頷いた。

しあわせの反対語は、不幸である。
同じように、「えらい行動」の反対は「悪いこと」のような気がしている。

でも、決してそんなことはないのだ。
むしろ、そんなことってほとんどなくないか。
それぞれのしあわせがあって、どっちを通ってもえらいことのほうが多いはずだ。

それでも時折、
いや隙を見つけては、誤った問い掛けをしてしまう。
誰かが「持っている」ものを、「持っていないわたし」は愚かなのではないか。
間違っているのではないか。
足りないのではないか。
そして自分が何を持っているかには見向きもせずに。

自分が何を持ちたいかの答えを、探そうともせずに。


想いを外に出しはしなくても、それぞれが何かを胸に抱きーーーひとはみなそうなのだ。
スーパーヒーローや黒や白だけで世の中がつくられているわけではない。厚い、優しい、そして本当はいちばん重要なのかも知れない、グレイの層があるのだ。

鷺沢萠 ”グレイの層”(海の鳥・空の魚)


いま、彼女の言葉を思い出している。
グレイの層。「重要なのかも知れない」どころじゃない
確かに重要なんだ。いちばんなんだ。
ねえ、わたし胸を張っちゃうよ。

だからやっぱり、兄がいくら正しくとも、わたしが間違っているわけではない。
わたしもなかなか悪くないやつなのだ。






※グレイの層(引用した短編、サンプルダウンロードで読めます)

※鷺沢さんのこと

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