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洗うべきお皿

せっかく来たから、
なんて心の中で言い訳をしなくても、わたしは決めていた。

どこかで時間を潰すくらいなら、と思ってこの部屋に立ち寄った。
「部屋で仕事をしているよ」と言われて、安心して電車に乗り込む。
「いつでも来ていいよ」という言葉は長いこと有言実行されていて、わたしはいつでもこの部屋を訪れることを許してもらっている。

彼女は宣言通り、パソコンに向かっていた。
わたしは「せっかく来たから」なんていう前置きを一応しながら、ゴム手袋に手を伸ばす。
その前に、洗い終わっている食器をしまうことも忘れない。

パソコンに向かって這うように、ひとりで、仕事をしているこのひとを、わたしは放っておけなかった。
パソコンの中で起きていることを、わたしに理解することはできないけれど、それ以外のことは
そんなふうに思って、家事手伝いをするようになって、もうずいぶんと経つ。

代わりに、いつもおいしいごはんを提供されて、わたしたちはテレビを見ながら話をする。
語り合う夜もあるし、そうでもない夜もある。
今日みたいに、お互いの作業を進める、という夜も訪れる。

この部屋で家事をすることを、“許されている”のだと、わたしは思っている。
一般的に、“家族”と呼ばない相手だとか、住んでいる人以外が家事をする場合っていうのは、きっと限られている。
わたしは、許してもらっている。
好き勝手な場所に、食器を返すこと。
わたし専用のクイックルワイパーで、部屋を駆け回ること。

「あなたが来たあとは、食器が低い位置に戻っている」と、いつの日か彼女は笑っていた。
わたしはこの家の食器棚の一番上に、手が届かない。

わたしはときどき、葉子さんのことを思い出す。
江國香織さんの長編小説「神様のボート」の登場人物で、葉子さんはずっと、わたしの心の中にも住んでいる。

葉子さんの、「わたしのからだは、コーヒーとチョコレートでできている」というところを、愛している。
ピアノを弾くところにも、親近感が湧く。(きっとわたしより、何十倍も上手で、まじめなピアノを弾くのだと思う)

そして、「洗うべきお皿があること」と言った葉子さんのことを、思い出す。

ピアノを教えることを仕事にしていることが多い葉子さんだったけど、ときどき飲食店でアルバイトをしている。
そのときのせりふだ。
「洗うべきお皿があること」
そのことに、ほっとするのだと言う。
しまうべき食器があって、洗うべきお皿があること。
拭くべきテーブルがあること。

その気持ちがわかる、と思っている。
そのすこやかさは、心にやさしい風を吹かせてくれる。

自宅にいるときだって、掃除やお皿洗いをするわけだけど、それとは少し違う。
「めんどくささ」がちょっと違う。
お皿洗いが特別に楽しくなるわけじゃないけれど、「せっかく来たから」と思う。
「帰る前にやってしまおう」と思う。
そして、「ありがとう」と言って笑う顔を見て、ついでにコーヒーを淹れてくれたりすると、なんだかとてもいいことをした気分にもなる。

この部屋で与えられた役割があること。
片付けるべき、そして「片付けることを許された」家事があること。
ひとつひとつを、わたしは身勝手に整えてゆく。
それは決して強制されたものではないし、わたしが家事を辞めたところでわたしたちは友達なのだけれど

わたしは今日分の家事を終えて、大変晴れやかな気持ちでこの記事を書いている。
任務達成、というのは、どうしたって晴れやかな気持ちになる。
友達はキッチンで踊りながらお湯が沸くのを待っている。
わたしはそれを横目で見ながら何も言わずに、もうすぐ用意されるであろうコーヒーに、心を躍らせている。

逃げ込むようにこの部屋にきたはずなのに、わたしを覆っていた暗雲みたいなものは、すっかりと晴れてしまった。

わたしはいつも、そんなふうにこの部屋で過ごし、晴れやかですこやかな魂を手に入れる。
いつも居心地が良すぎて「帰りたくないなあ」と思いながら、「またくるね」と言って。へらりと笑ってこの部屋をあとにする。

そのことが、もう何年もわたしの魂を、守ってくれているのだと思う。




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