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正しくない夜

ときどき、家族とごはんを一緒に食べると嬉しいことがある。

食に関しては、わたしが皇帝なので
一緒にごはんを食べるときは、座っているだけでいい。

家事の中で、食べるに至るまでがいちばん面倒だと思う。
冷蔵庫のものをあたためることと、お皿を洗うことだったら、後者のほうが気がらくだ、と思う。

好きなだけ食べて、飽きたら残す。一緒にいるときは、その姿勢を貫いている。
残したものは、となりに座っているひとが食べる。
むかしの皇帝は、すごくたくさんの食事を用意されて、残したものを下位の者が食べる、みたいな制度だったときがあると聞いたことがある。
だから、わたしはこの家の皇帝を名乗る。
いちばんえらい。

しかし、皇帝であろうとも、ひとりのときは別だ。
下々の者が不在とあれば、冷蔵庫からいろいろ出して、お皿に盛ったりあたためたり
あと「何を食べようか」とか考えなくてはならない。
ふたりでいるときは、なにも考えなくていいからいい。
丁寧に「キムチは食べる?」とか聞いてくれることすら、時折煩わしい。
もうなにも考えたくない。

でも、いちばんいいことは「おかわり」だと思う。

普段はひとりで、買ってきたものとか、作りおきのものをあたためて食べているのだけれど
それは、自分で食べられる量をテーブルに用意する。以上、終わり。
もう少し食べたいな、と思ったらアイスをかじる。
むしろ「もう少し食べたいな」と思わないように念じている。
追加で何かを用意するのは面倒過ぎる。
そして、食べ過ぎは良くないものだ。と信じてしまっている。
実際によくないのだと思う。

でも、ごはんを一緒に食べていると
おなべのお味噌汁はまだあたたかく
フライパンにはたっぷりと牛丼が煮えていて
もう少しだけ、お皿に持ったりすることができる。

「もうちょっとだけ食べちゃおう」という言葉は
なんと幸福に満ち溢れているのだろう。
いつも、うっとりしてしまう。

ときどき、そういう夜が必要なのだと思う。

それは、誰かと食べることも大事だと思うけれど
今日の話はそうじゃなくて

枠を外れること、だと思う。
正しくあろうとしないこと、だと思う。

ほんとうは、食べられる量を用意して
それできちんと満腹になって
「ごちそうさま」って言えるよ、おとなだから。

でも、「今日はもうちょっと食べちゃおう」って
甘やかしてみたり、欲望のままでいたり、
そういう日がたぶん、きっと
必要なのではないか。と思っている。

そうして「食べ過ぎた」と言って、ソファーに倒れ込む。
正しくない夜が、わたしには必要なのだ。絶対に



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