腹の奥の不幸へ
記事を書き溜めないようにしている。
読み直す、っていうのが疲れるから。
怒りや憎しみが滲むような言葉を書いてしまったときは、一晩置くようにしている。
行き過ぎた感情を載せるべきではない。と思っている。
ふたつの信念が重なって放置してしまった仮タイトル「不幸のこと。※あとで読み直して」を放置して、1ヶ月も経ってしまった。
読み返して、このことが書いてないことが不思議だったので追記しておく。
わたしがあの怪我から立ち直れたのは、
出会った瞬間に松葉杖をついていたドラマーが、
「それでも、怪我なんかしなけりゃよかったと思うよ」と言ってくれたからだった。
それは、右手の動かなくなったピアノ弾きを救ってくれた、たったひとつの共感だった。
(君はこのときのことなんか忘れてくれていい。わたしが覚えている)
2022年7月3日 松永ねる
*
*
*
「でも、若いときでよかったね」と言われたことも
「右手がないピアニストもいるからね」と言われたことも
いまでも覚えている。
もう10年近く経つのに、執念深すぎだろうか。
憎んでいない。
でも、覚えている。
誰か、いつ、その言葉をわたしに告げたのかを。
そしてわたしはいまも、このふたりの友人を好ましく思っている。
ただ、傷ついた言葉を執念深く覚えている。
それだけのことだった。
*
濃度を変えながらも、右手が動かなくなったあの日のこと
そしてあの地獄のような日々を、わたしは忘れないだろう。と思う。
*
「それでもよかった」とひとは言いたがる。
「そんなダメな男と別れられてよかったね」
「引っ越す前でよかったね」
「良い経験になってよかったね」
そして、「若いころでよかったね」とか。
右手が動かないときに
(ブラジャーの後ろのホックと、腕時計が外せなくて、3ヶ月ほどお箸が持てなかったあの頃の話だ)
「右手のないピアニストもいるからね」
なんて言われたら。
わたしの指は、十本ある。
と思えば、わたしは不幸ではない。
不幸中の幸い。
「でも、よかったよね」の理由なんて、たくさんある。
わたしより不幸な人はたくさんいる。
だからいつも、ハチクロのセリフを思い出す。
*
特に「全員で不幸目指してヨーイドンだ」というセリフは強烈だった。
10代の終わり、もしかしたら二十歳とか、
はぐちゃんや竹本くんと、同い年くらいだったあの頃のわたしのこころに、しっかりと刺さった。
いまでも、「ヨーイドンすべきではない」と思っている。
強く、それはもう強く
でもそれは、悲しんではいけないとか、誰かと比べて自分の痛みを軽視していい。という話とは違う。
痛かったよ。
親指が動かない”だけ”だったかもしれない。
指は十本残ってる。
でも、痛かったよ。すごく。
怪我から得たものはたくさんある。
あれから、自分の身体を顧みるようになった。
「働けない身体でも生きること」の情けなさを経験していたからこそ、今回の休職だって乗り越えられた。
二度目の痛みだ、と思えば。
もう一度きっと、大丈夫だって、宛てのない希望だってつぶやけた。
良くも悪くも人生も、人格も変わった。
もし会えるなら、怪我をしなかった30代のわたしに会いたい。
きっと、いまのわたしとは全然違う生き方をしていると思う。
でもね、不幸だったよ。
どうして、わたしの指だけ動かないんだって
ステージにいる他のすべてのひとを呪ったよ。
きちんと、丁寧に
そして呪ってしまう自分を、強く責めた。
そんなふうに思ってはいけない、他人と比べてはいけない。
あのひとの手が動いたってそうじゃなくたって、わたしの手とは関係ない。
だから、決して比べてはいけない。羨んではいけない。
「良いこともあったから、不幸だと思ってはいけない」と
最後にはそんな言葉で、自分をぶん殴っていた。
*
このメモを残した日のことは、うすぼんやり覚えている。
通勤途中の、エスカレーターだったと思う。
それ以上は思い出せない。
思い出せないけれど、
「味覚も嗅覚も戻ってないけれど、食べられるものがあってよかったね」
なーんて、また思っていたよね。
それはそれでいいんだけど
不幸だったね。
食べたいと思うものを食べられない身体になって。
「美味しそう」と思って口に含んだものを、「おいしくない」と何度顔をしかめただろう。
それはとても、不幸だったね。
同じ病気になっても、同じ症状にならない人もいる。早く治る人もいる。
そもそも、同じ病気にならない人だって大勢いる。
もちろん、「食べられるものがない」と苦しんでいる人だってきっといる。
そう、ぜんぶ間違いじゃなくて。
ぜんぶ間違いじゃなくていいんだよ。
不幸だったね。
苦しかったね。
でも、食べられるものを見つけて、食べて
あと、愚痴を聞いてくれる友達がいてよかったね。有り難いね。
あの日、ハチクロがわたしに教えてくれたことは
「傷を軽視してもいい」なんてことじゃ、決してない。
誰かの痛みを思いやる、ということ。
自分のほうが痛いからって、誰かの痛みがなくならない。ということ。
だから「ヨーイドン」してはいけない、ということ。
だからもう、平気な顔をしなくてもいいよ。
大事なことはきちんとわかっている。
わたしは有り余る幸福を抱えながら、
不幸であることを、きちんと背負い込んでいる。
※now playing
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