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めんどうの裏側

エッセイを日常的に書くようになってから、1年と半分と少し。

たのしく書いているときもあれば、
ああ今日も書かなきゃな〜と思うときもあるし、
するっとパソコンの前に座って、さくっと書いていることもある。
いろんな日がある。

「書き続けたわたしに会いたい」というよりも
「書かなくなったわたしを見ることが怖い」という消極的な理由で書いているだけかもしれない。
わたしはいつも、前向きに消極的な一面を持ち合わせているような気がする。

いろんな日があるけれど、「後手になる日」っていうのがある。
そしてそれは、「後手になる期間」となる。
一日では済まない。
それは、数日続く。

不思議だなあ、と思っていたけれど
これがなにも不思議じゃない。ということに、もう気づいている。

「書かなきゃ」と思い始めてしまうと、面倒になる。

それも、当社比で気遣いが必要だったり、長文になりそうだったり、気持ちが先走ってオチが決まっていないとか
そう、総じて「時間がかかりそうで手間なやつ」を、「書きたい」と思ったとき。
これを、すぐに書き始めることができない場合「書かなきゃ」になって、面倒になる。

「書かなきゃ」と思う内容のものは、時事ネタというか、新鮮であるべきというか、前後関係というか
とにかくわたしの中で勝手にいろいろあって、「早急にやるべき」に分類されている。

早急に、時間を掛けて、大切なものを書かなきゃいけない。
そうなると、もうぜんぶ後回し。
家事を終えてお風呂に入っても、なかなかやる気が起きない。
そういうときは不思議と、ピアノも弾きたくない。
わたしのデスクは、正面を向くとパソコンで、左側を向くと電子ピアノが設置されている。
つまりは、デスクに座りたくないんだと思う。
逃げたい。

そう。
「書かなきゃ」を書き終えるまで、わたしは後手暮らしとなる。

書き始めればすぐに終わったりもするんだけどなあ、と思いながら
今日は「書かなきゃ」と思った記事を、後回しにすることにした。
「書かなきゃ」の半分は思い込みで、1ヶ月後の自分を想像してみたけれど、温度を失うことはなさそうだし、書かなくてもひどく後悔するような話題でもなかった。

ああまた、思い込みで首を絞めちゃったな。
まぬけなわたし。

まぬけだから、たくさん疑ったほうが良いよ。
「書かなきゃ」は、「書くべき」なのか。
わたしは、「書かなきゃ」を書くのか、「書きたい」を書くのか。
そして、毎日書く必要があるのかとか、なんのためだったかとか
すぐ忘れてしまうからね。

書くことと弾くことは、これからも嫌いになりたくない。
できるだけ、「書きたい」わたしの時間が増えますように。
弾き始めるのはめんどうでも、指先からこぼれた音が、わたしを守りますように。

これからも、思い込みを疑って、
首を絞めるんじゃなくて、もふもふのマフラーで守るような
やさしい生き方ができますように。




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