見出し画像

「観念して、ぼうっとしましょう」

どうしようもない瞬間がある。

動けない。
或いは、動かない。

如何ともし難いその瞬間、眠りに落ちてしまえばいいのに。
ああ、どうしても眠ることを許してくれないのだろう。
ベッドに横たわり、あるいは膝を抱えながら、思いを馳せる。

もう少し何か、できるのではないか。
ベッドの下の引き出しからパソコンを引っ張り出して、少しだけ仕事を進めてもいいだろう。
読みかけの本に、手を伸ばしたい。
ああ、でもそんな気力はなくて、SNSの文字列だけを追いかけてしまう
ああ、そんなことができるならば、他の何かを
もしかしたら仕事に、行けたのではないか、
ああ、また休んじゃったよ。

「そういうときはね、考えたって仕方がないですから。何もしない、ですよ」

先生の、優しい声が響く。
「パソコンとかね、そういうものの疲れを感じたので、ほぐしておきました」とも言っていた。
そうだ、休む。
「休まなくてはいけない」と思うのも、また苦しくて
そういうことではなくて、でも何もできなくて、何も”すべきではなく”て
でも、と考えることが身体を追い詰めるから「何もしない」という声を、どうにか捕まえる。

そうして、リカさんのことを思い出すことにした。




”ハチミツとクローバー”の8巻で、真山とリカさんが、札幌に行くシーンがある。

というと、平和な何かに聞こえてしまいそうだけれど、決してそうではなく
リカさんが、「特急カシオペア 札幌」に目を奪われた瞬間、真山がリカさんを連れて特急に飛び乗ってしまう。
もちろん乗る予定なんてなくて、「大宮で降りましょう」とリカさんが告げたのに対し、真山は遠慮がちにこう言う。

「このまま行きませんか。北海道まで
 ずっと、帰っていないのでしょう?

 何か…
 見当違いな事を言っていたらすみません……

 でも
 帰りたそうに、見えたんです」

”ハチミツとクローバー”8巻より

それを聞いたリカさんは、札幌行きを決意する。

そして、「ノートパソコンも持ってこなかったし、資料も事務所だし」
お手上げだわ、と言ったリカさんの、次のセリフを忘れない。

「観念して、ぼうっとしましょう」

”ハチミツとクローバー”8巻より




リカさんの、やさしくて細い声が、響いている。
雨に打たれた、カシオペアの中で。

ああ、わたしにもそのときが訪れたのだ。
もしかしたらそれは、人よりも多いかもしれない。
本当は、「健康で余裕のある状態で、余暇を買う」べきで
ベッドで唇を噛み締めながら、使うせりふではないとは思うのだけれど。

「諦めない」ことを、美徳として育ったと思う。
昭和の最後のほうに生まれた同年代の人々ならば、中学校を卒業するまでのどこかのタイミングで、1度くらいは学級目標が「諦めない」になっただろう。
皆勤賞が褒められたりもした。
学校を休むと、すごく悪いことをしている気持ちになった。
学校へ行かなくてもいい安心感と
午後、具合がよくなったような気がして、学校へ行けばよかったと後悔するような気持ち。


観念とはひとつ、あきらめることだった。

そういうものだとあきらめて、それ以上の状態を望まないこと

神明解 国語辞典より

悔しくないといったら嘘だ。
あきらめることは、すべてを捨てることとイコールでなくても構わない。

ときには、観念しなくてはならない。
人生には、「観念して、ぼうっとする時間」が必要なのだ。

そしてそれが、誰かと比べて多い人と、少なくてもいい人がいて
そりゃあ、少ないほうがいいだろうと思うけれど
そりゃあ、背が高い方がいいだろうと、150センチのわたしが勝手に思うのと一緒で
180を越える先生にも、苦労はあると言っていたから
どちらがいいとか、そういうことではないそれがきっと、「観念して」なのだろう。




リカさんの、やさしくて細い声が、響いている。
やわらかい毛布に包まれて、使い古したまくらの、その耳元で

わたしはもう一度、目を閉じる。
眠れたらそれでいい。
眠れなくても、それでいい。
眠れなくって、起き上がって、なにひとつ生産的なことができなくても、それでいい。
悔しくっても、それでいい。

だから今は、観念して目を閉じる。

意識をまっすぐ、カシオペアに馳せる。
そして雨のカシオペアから、外の景色を見つめているリカさんの手を、そっと握る。
だいじょうぶだよ。
あなたは、だいじょうぶ。

だからわたしもだいじょうぶなのだと、そおっと言い聞かせる。
あなたがわたしを許して、わたしがあなたに許される。

「観念して、ぼうっとしましょう」

やさしくて細い声が、もう一度響いた。





(やさしい先生の話)

(ハチミツとクローバー、どきどきライオン)


(内緒話)

(おしゃべり)



スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎