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人生に希望は、必要か

希望に、殺されそうになったことがある。

あれは、10年ほど前の出来事だろうか。
右手の親指を、骨折した。
それは、小さな小さな剥離で、最初の病院では見つけてもらえず、その次の病院で撮ったレントゲンに「本当に痛いからもっとよく見てください」と訴えて、ようやく見つけてもらえた。
ほんとうに、小さな剥離だった。

当時のわたしは、ピアノを弾くこと(練習をすること、曲を作ること、ライブをすること)と、ライブハウスで働くことがすべてだった。
わたしの右手は、わたしにピアノを弾くことを許さなかった。

”レ”が弾けない。
左手はド、右手はレとミ、その上のシを押さえるそのコードを、いまでもなんと呼ぶか知らないけれど、わたしにとっては希望みたいな曲だった。
右手で隣り合うレとミを押さえるには、どうしても親指と人差し指を使う必要があって
あの痛みは、いまでもちょっと忘れられない。

中野の、1LDKに住んでいた。引っ越したばかりだった。
蛇口と、洗濯バサミを掴むのがつらかった。
ご褒美で自分の気を紛らわせたかったけれど、貧乏だったので薬局に行って、必要なものを買うことで気を静めていた。
薬局にもスーパーにも、母親より年上の人がたくさんいて、みんな当たり前みたいに働いているのに、どうして自分にはそれができないんだろう、と責めた。

「右手がないピアニストがいるよ」と言われた。
「若いうちでよかったね」と言われた。
「大したことなくてよかったね」と言われた。
わたしは、笑った。
「どうして、あの人の右手は動くのに、わたしの手は動かないんだろう」と思った。
そんなことを思う自分を、呪った。

「治ったら、いろんなことをやりたいね」と話した。
新しい企画、新しいCD、制作のいろんなこと。
話したとき、確かに、確かに救われた。
ああ、だいじょうぶ。
人生にはこんなに楽しいことが待っているんだから、と思った。

そのときのわたしは、この怪我とそのさき数年、いまもなお、わたしの身体の「ウィークポイント」として延々と刻まれ続けることなんて、想像していなかった。
治ることを信じていたわけでもないし、
治ったときに頑張れるか不安だ、と思ったこともある。
とにかく、先のことがあんまりうまく考えられなかった。
右手が痛くても、痛くなくても絶望的な気持ちだった。

でも希望が、希望があると信じていたのだけれど
まさか、「悪化する」とは思わなかった。
なぜだか、その洗濯しだけは浮かばなかった。

たぶん、風邪とか捻挫とか、そういうものを想像していたんだと思う。
時間経過で、治ってゆくものを。
それの、「ヤバイ版」というか、「治るまでに時間がかかるもの」という理解だったから、
悪化とか、後退は、予期していない答えだった。
あれほど傷つかないように用心して、いろんな答えを用意していたというのに。

やっぱり、できなかったーーー

あの夢もこの夢も、叶うような手ではなくなってしまった。
ああ、希望なんて持たなきゃよかった、と思ったあの日
中野の、ユニットバスの曇りガラスの前に座り込んで、わたしは泣くこともできなかったあの日

わたしは、希望に殺された。



「生きているだけでエライ」と思えるようになった。
あれから少し、生きやすさを覚えた。
それは甘さであり、愛した苛烈を手放すことになったかもしれないけれど、それが「おとなになる」ということで、あなたが言ってくれた「やさしくなること」なのかもしれない。
そうであればいいな、と思っている。

22時、今晩書くエッセイについて考えている。
そろそろ、後ハッピーマニア4巻の感想を書きたい。
インスタに投稿したい内容を思いついた。
ふらふらと、脳裏を飛び交う情報をつかんで、とりあえずメモ欄に落とし込む。

それとはまた別のところで、身体の熱が上がってゆくのを感じた。
ここのところ、微熱が続いている。
残念ながら、後ハピの感想は後日だ。
この重たい身体で、シゲタの熱量を受け止めて、引用箇所をまとめて、感想文を書くことは難しい。

そして、希望について考える。

最近は、具合の悪さがどこかの一定ラインに滞在しているときに、「書きたいものストック」が増えることがわかった。
生きようとしている感じがした。
ストックが貯まるのは、「書きたいけど書ける体力がない」ということを意味している。
でも、むかしほどそれを寂しく思わないようになった。

ここ数年は、「休日にやりたいことが見つからない」という悩みを抱えていた時期もあった。
一生懸命仕事をして、休日にやりたいことを考える余裕もなくただ眠って
生きている意味ってなんだろう、って思っていた。
平日の仕事の合間に、なんだかやりたいことを思いついたような気がしていたし、帰りの喫煙所で何度も「あれやろ」って思ったのに、いざ休日になると何も思い出せない。
希望を欲していた、わたしのこと。



人生に、希望は必要だろうか。

もしおおまじめに、逃げられないような、誤魔化したきかないような状態で尋ねられたとしたら。
きっと、「あってもなくても大丈夫だ」と答えると思う。
要するに、必要ではない。
だって、生きているだけでエライし、
希望さえ持たなければ、希望に殺されることもないだろう。

それでは、希望を持つことは悪なのだろうか。
そう問われたら「ンなわけあるか!」と、ちょっとツッコミ気味で答えようと思う。

「いまはそのときじゃない」ってことが、あると思う。
例えば動かない親指で、ピアノの練習をしたらいけないし(したけど。めっちゃ後悔してる)
そんな中、もしわたしの希望が「ライブをやる」だったら叶えてはいけない。
もちろん、ライブのスケジュールも組んじゃいけない。
(もし、完治の見込みが決まっているとかならば、その限りではないけれど)

「いまはそのときじゃない」っていう希望を
抱えきれない夢を持ち続けるのは、ツライと思う。
わたしもツラかった。めちゃくちゃツラかった。

かといってムリヤリ、「わたしは希望を持ってはいけないんだ」と思ったこともツラかった。
めちゃくちゃツラかった。
希望とか夢とか、そういうことをひとつずつ着実に叶えることで救われてきた。
それなのに、もう新しい夢を語れなくて、親指は動かなくて、あのとき生きることを諦めないでくれてありがとうとしか言いようがない。
でも、「希望を持たないこと」が幼かったわたしの、「希望に殺されたわたし」の唯一の答えだった。



もう一度言う。
「希望を持つことは、悪ではない」

そして、希望を持たないこともまた、悪ではない。

それはね、日々の暮らしを頑張っているんだよ。
頑張って満たされている
或いは、頑張りすぎて何も考えられていないんだと思う。
だから、よく頑張っている証なので、恥じなくていい。
めちゃくちゃカッコ良いと思う。
って、誰か32歳のアタシに伝えといて欲しい。

おそらく、適切な”時間”と”体力”が必要なのだと思う。
希望っていうのは、自分の持ち時間とは別の次元で生まれてくる。
不思議と、脳内が様々事象で埋まっているときのほうが、連なるように浮かんできたりするものだ。
でも、そういうときは処理する時間がなかったりする。
処理というのは、「希望を実現すること」もそうだけれど、加えて「希望を希望のまま覚えておく(持続させる)努力」も含まれる。
だから、忘れる。
そして、体力を失う、休日は寝てしまう。

希望は、書いてしまっておくのがいいと思う。
そして、「どこにしまうか」が大切だと思う。

例えば、次の休日にやりたいことなど、直近の希望は手前に
現在のフェーズでは叶えるのが難しそうなこと(微熱のわたしが高尾山に登るとか、無理そうなこと)は奥にしまうといい。

そしていつか、希望が必要になったとき
取り出してあげられたら、それでいいんだと思う。

もう少し生産性のある人や、そういう場合だったら
微熱のわたしが高尾山に登るために、今は休むとか、しっかりごはんを食べる、とか
手前の目標を叶えていくのもいいと思う。
朝のラジオ体操を復活させる、とかね。
でも、ほんとうに熱が出ているときはやめたほうがいいからさ、そういうときは「おやすみ」って思ってね。
どうかもう、「希望に殺された」なんて思わないでね。大丈夫だから。



人は、信じられないくらい多くのことを忘れる。

22:09
人生に希望は必要か
しまっておくこと
体力

このメモから、ここまでの文章を錬成したけれど、あのとき書きたかったすべてを書けていたかわkらない。
何かが足りないような気がするけれど、断言できるほどではない。
もう、ぼんやりとした記憶しかない。
現在の時刻は、23時28分。
あれから、1時間20分しか経っていないというのに。

人は、信じられないくらいに多くのことを忘れるし
同じくらい、と言っていいのかわからないけれど、根深く覚えていることもある。
それこそ、10年前の怪我の記憶の一部だとか

「希望というのは、過去とか未来じゃない。いまここにあるんだ」

江國香織"神様のボート"

葉子さんのセリフを、今でも愛している。
これからも、愛している。

でも、もしいまここで燃やせない希望があるのならば
どうか、未来に託して欲しい。

もう少しおとなに、もう少しやさしく、もう少し強くなった自分が
最善の形で叶えてくれることに、賭けてみる。
わたしのことだから、もっと”良い箱”に、また希望をしまってしまうかもしれないけれど
それはそれでいいのだと思う。
必要なときくらい、自分でわかるはずだ。

希望というのは、適切なカタチで所持をする努力をすること

きっとこれが、わたしの答えだ。
だから、「持つこと」も「持たないこと」も悪じゃない。
同じくらい「希望に近づけていない自分」も悪じゃない。
どうか、そのことを覚えていて欲しい。
もし、あなたがあなたを許せないというならば
わたしも、この微熱を許せなくなってしまう(ものすごく憎んではいるけれどね)



これを以て、下記ご相談ごとへの回答とさせていただきます。

将来やりたいことやるためにどう今過ごすか、休まなきゃと思いつつもどかしくて、手探りで、ご相談してみたくーーー

病気や怪我については、結果論でしか語れないけれど
夢に向かって休むのも、立派な任務だと思います。
わたしは、身体治したいので、明日から出社の時間ぐっと減らします。
治らなかったらまた休職です。夢に向かっています。

あと、小さな目標を叶えるといいと思いますが、「小さな目標ってナニ?」って話はまたこんど。
叶えられなかったことより、いま叶えられることを設定してくださいね。

あと、「やってみたいオーディションについて、年齢制限があることに焦りがある」っていうのは
これは、我々おとなの責任ですね。

あなたが憧れる人って、その年齢だからカッコ良いですか?

もちろん年齢も大いに関係しているとは思いますが、すべてではないです。
いま20代の前半なら、29歳の年齢設定って大きく、重たく見えるでしょう。
30才以上の格好良い人の多くは、20代のころから結果を残している人かもしれません。

でも、世間が胸を張らせてくれない結果だとしても、
格好良いと思えるおとなは、たくさん、たくさんいます。

おとなは悪くないぞって伝えることが、
おとなの任務です。
これに関しては、わたしが受け取った希望を、少しでもわたしより年若い世代に伝えていくことを任務だと思っています。

病気で(そもそも体力がなくて)、アルバイトで、パートナーがいるくせに未婚で、子どももいなくて、貯金もなくて、
noteだけは毎日更新しているけれど、「毎日更新している」以外の成果が特にないわたし(レベル35)をカッコ悪いと思いますか?

あ、カッコ悪いかもしれない…
これでもけっこう楽しくやっているし
わたしと、わたしの仲間をバカにしてくるやつには
ハイパー格好良いドロップキックをお見舞いするって、決めています。

2023年7月5日 ねる




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