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スーパーファミコンで遊んでいたころのわたしに会ったら、伝えてあげて

兄が、うちに遊びに来た。
貸していたタッパーを返しにくるという名目ではあったけれど、「遊びに来たい」と言ってくれたので、わたしは嬉しかった。
隣の駅の、反対側に住んでいる兄の家までは、歩いて30分。
ちょっと前までは「めんどう」とか「いつかね」と言っていたのに、最近は時々遊んでくれる。

同居人がカレーを煮詰めてくれているあいだに、わたしは兄とスマッシュブラザーズで対戦する。
兄から借りパクしているソフトで、今となってはわたしのほうが圧倒的にプレイ時間が長い。
それなのに兄は、この短い時間でぐんぐんと上達して、最後には結構ボコボコにされた。
新キャラのスティーブ、操作が絶対難しいと思って、わたしは手をつけていなかったのに…

わたしの、ゲームの趣味の大半は、兄の影響だ。
兄が買ったとか、どこかから借りてきたゲームのおこぼれを見たり、プレイしたりしていた。
スーファミの1Pは絶対兄で、わたしは2Pで、いつ死んでもいいような気楽さで、兄の後ろにくっついていた。

同居人が作ってくれたカレーを食べたあと、YouTubeを見ていたのだけれど、わたしは気づいたら寝ていた。
寝ていたからよく知らないけど、兄と同居人は、なにやらゲーム実況を見ながら、語り合っていたらしい。
わたしと同居人はゲームの趣味が合うので、当然のように、兄と同居人はもっと話がわかり合うようだった。

目覚めたあとに「そういえばさ、」とわたしは切り出した。
兄と一緒に、見たいと思っていたゲーム実況があるんだよね。
ミッキーのマジカルアドベンチャー。
小学生の頃、うちにあったスーファミのゲーム。
あれ、わたしは難しくて全然できなかったのに、以前ゲーム実況を見たとき、かなり後半のステージまで記憶にあった。
たぶん、兄がプレイしていたのだと思う。
一緒に見たら、きっと楽しいんじゃないか、と思っていた。

そしてきっと、兄はわたしの知らない記憶も持っているのだと思っていたら、期待以上だった。
わたしは、このゲームの2作目をプレイした記憶は全然なかったのだけれど、「やっていた」と言われていた。
ゲームそのものは、従兄が貸してくれたということ。
最初のステージのボスを、勝手に「ジャバゴン」と名付けていたこと。

そして同居人と一緒に、「このステージの隠し扉は、」とか「本来の攻略方法と違うけど、魔法を使った」とか、思い出尽きない。
よくもまあ、ふたりとも細かいところまで覚えているな、と思ったけれど「めちゃくちゃやりこんだから」と、ふたりとも笑っていた。

1987年生まれのわたしは、「ゲームはあんまりよくないもの」と言われて育った。
自分の親がそうだった、というわけではないけれど、そういう風潮だった。
本ばかり読むことよりも、ゲームばかりすることのほうが、なんだか悪いみたいな雰囲気だった。
「一日にゲームは1時間」とか、制限されていたっていう友達の話も、あんまり珍しくない。
いまの子どもたちは知らないけれど、いまではいろんな年代の人がゲームをやっているようなCMもあるし、わたしが子供のときよりも市民権を得た、というような気がしている。

大人になったわたしたちは、ゲームを通じて、ついこのあいだまで他人同士だった、兄と同居人を「友達」にしてくれた。
次はあのゲームのプレイ実況も見たいね、とか、一緒にやりたいね、とか、話は尽きない。

「めちゃくちゃやりこんだ」っていうのも、いいと思う。
一生懸命だった。
スーパーファミコンのゲームは、今よりあんまり親切じゃなくて、セーブもあんまりできなくて、同じステージを何度も何度も繰り返さないと、先に進めない。
攻略サイトを見ることだってできなかった。

それでも、
何度ダメになっても挑戦して、
攻略方法を探して、
もうダメだって思っても、次のステージを目指す。
悔しくっても、諦めない。

それは、”一生懸命”ということで
それは、何事にも代え難い、尊いことだと思った。

もちろん、ゲームがすべてではないし、他にも楽しいことはたくさんある。

でも、わたしは人生でいくつ、何度、「一生懸命だった」と、断言できるだろうか。
「これなら負けない」と言えるだろうか。
少なくとも、ゲームだと……64のマリオカートとマリオテニスは相当やった、"練習した"と断言はできるけど、誰にも負けない、というほどではなかった。
ゲームだって、練習しないと上手くならない。
上手くなったところで、勝てないこともあって、やっぱり悔しい。
悔しいと努力して、強くなる。
そういうことを、繰り返してきた。

わたしたち兄妹と、同居人と、幼少期を共にしていなかったわたしたちが、
ゲームを通して、あのときの記憶を繋げてゆく。
いまでも、一緒に遊べる。

なーんだ、やっぱりゲームって悪いものじゃないじゃん。

やりすぎはよくない、なんてゲームに限ったことじゃない。
そして「一生懸命」やるんだったら、ゲームだっていいじゃない。

だから、昔のわたしに会ったら言ってやりたい。
画面の向こう、まだまだ遠くの、会ったことのない人にこの先に出会えるよ。
何事も一生懸命やりなさい(節度をわきまえて)

そして、「練習しなければうまくならないのだよ」と。
最初からなんでも、上手い人なんてどこにもいないんだよ。
ゲームだってそう。
だから、一生懸命やりなさい。

ハサミでだって人を殺せる。
でも、ハサミは便利な道具だ。

ゲームだってやり過ぎはよくない、毒になることもあるかもしれない。
でも、最初から「毒」だなんて、排他的にならないで。
ゲームも「一生懸命」の可能性と、友達と繋がる楽しさを秘めている。
とっても楽しい「便利な道具」なんだと思う。





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