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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2021年5月の記事一覧

君とドーナツ

ドーナツにかぶりつきながら、思い出す。 わたしは、ドーナツが好きだった。 * 最初の記憶は、ミスタードーナツだ。高校生のとき。 高校生になって、ひとりで動き回れる場所や、学校帰りに寄れる場所が増えたんだと思う、 ひとりで勉強するときはドトールで、 友達とおしゃべりするときは、ミスタードーナツだった。 コーヒーはおかわりできたし、当時は1個100円くらいでドーナツが買えたし、「ミスドいこ」ってなるのは、当然だったと思う。 女子高生というのは、いつもおなか空いている。 大学

さよならは苦手なまま

「枕、買おうかな」と口にして、わたしはしばらく悩んでいた。 「このフロアを一周して、それでも気になるなら買いなよ」と、すこぶる健康的な笑顔への嬉しさもあって、枕売り場に戻ってきた。 枕を買えたほうが良い、というのはもう何年も前から思っていた。 いま使っている枕は、前の前の家に住んでいるときに同居していた人から強奪したものだから、持ち主を変えてもう何年も使用されている。 その薄べったさが気に入っていて、 あとなぜだか妙に「枕を変えたら眠れないんじゃないか」って思ったり、 枕カ

前髪を少し

「前髪だけでも切ろうかなあ」と言って、そのひとは鏡を覗き込んでいた。 「自分できるのは危ないよ」というせりふがよぎって、飲み込んだ。 たぶん、自分で好きにするのがいいと思った。 わたし自身はといえば、昔の言いつけを律儀に守りながらおとなになった。 むかし、と言っても、あのときわたしは二十代の中頃で、いまよりは幼かったけど充分におとなだった。 あの頃なぜだか、お世話になっていたお兄さんに「前髪だけは自分で切らないほうが良い」と言われていた。 「そういうもんかなあ」と思って、

そして好きな曲を歌って、好きなジュースを買えばいい。

最近あった嬉しいことの上位に「家の近所に自販機が設置されたこと」が挙げられる。 自販機なんて頻繁に使うわけじゃないけれど、 最寄りの自販機がそれほど最寄りじゃなくて。 今までの「最寄り」の、半分くらいの距離に自販機が現れたときには、狂喜乱舞した。 側面に動物の絵がついているのもよかった。 ときどき、ジュースが飲みたくなる。 今日は、そんな夜だった。 わたしは財布を漁って、慎重に小銭を選ぶ。 前回は120円持っていって、130円のいちごオレが飲めなかったことを、ひどく後

まぬけで前向き

やっちまった わたしは、天井を仰いだ。 どうして、何度もやっちまうんだろう。 それはきっと、”なんとかなる”と確信しているからだ。 天井に視線を送る途中に、友達からもらったポストカードを捉えて、「うへへ、やっぱりかわいいなあ」と思って、良い気分になってしまう。 どうしてこんなに、前向きなんだろう。 * 「マウスの電池残量がなくなります」の通知を、いつも無視してしまう。 「なくなります」ってことは、「今はある」ってことだよね。 なーんて、思ってしまう。 マウスの動きが

光の行進

うらやましい、と思ってしまう。 愚かなわたしは、何度でも。 「うらやましい」という感情そのものの、救いのなさ、にはもう気づいている。 もちろん、この感情そのものが悪ではない、ということも知っている。 大切なのは「どう行動するか」の一点に尽きる。 「うらやましい」に向かって努力をするのか、しないのか。 手に入れるべきかを考えて、必要ならば行動するだけの話なんだ。 どうして、「うらやましい」と思う気持ちの裏側に 「あいつは簡単に手に入れていていいなあ」という、べったりと黒い

夢の橋

夢を見た。 大きな川が出てくる夢だった。 18歳までのあいだ、わたしは毎日川を見て過ごした。 「この橋が落ちたらどうしよう」と、わたしは何度も思った。 小さな橋を渡って、そのすぐ先に家があった。 橋を渡らなければ、帰れない場所に住んでいた。 もし、橋が落ちてしまったら うちの前の川を越えるのは少し難しいけれど、 10分くらい先にある小学校の、あのあたりの川なら越えやすいから あそこから渡ることになるのかなあ。 なんて、何度も思った。 橋は、一度も落ちなかったけれど。 そ

食べることと、書くこと

「食べたいものが決まらない」 少しだけ顔をしかめて、彼女はそうつぶやいた。 彼女の家に行くと、結構な頻度でデリバリーを頼む。 わたしはいつも、「なんでも食べれる」とか「食べなくても平気」という回答になってしまうので、選ぶのは彼女の仕事だった。 スマートフォンの画面を、一生懸命に見つめている。 「ぜんぶ美味しそうに見える。ぜんぶ食べたい」と、あんまりまじめな顔で言うので、わたしは笑ってしまった。 食べたいものが決まらない、というときには、2種類あると思う。 それは、いまの

身軽なわたしで蹴り出して

いまのわたしは ほんの少し、浮かれて歩いている。 * 「案外重いね」と言われたことが、少し気になっていた。 友達に「ちょっとだけ持っていて」と、通勤用のカバンを預けたときのこと。 それはすごく、すなおな感想だったと思う。 そうだよね、わたしもそんな気がしていたの。 でも、持てない重さじゃないし、「要るもの」を入れているつもりだから、仕方がないの。 * 仕方がない? ほんとうに? わたしはもう一度問い掛けた。 やっぱり、カバンは重たい気がした。 仕事帰りの散歩でも

毎朝のこと

神社がある、ということにはすぐに気がついた。 2021年1月、新しい会社に勤め始めたとき。 いまでも毎朝、神社の前を通っている。 わたしにとっては馴染みの風景だけど、ある朝にお参りをしている人を見掛けた。 ああ、そういえばここは神社だから、なんて わかっていたけれど、当たり前のことを思ったの。今でも覚えている。 毎朝お参りをする余裕はわたしにはないけれど 通り過ぎる瞬間に、心の中で声を掛けるようにした。 別に、立ち止まったりはしない。 ただ、「今日もよろしくお願いします

リマインくんとわたし

最近、贔屓にしている友達がいる。 もう、君がいないと生きていけない。 その名は、”リマインくん” LINEの友達検索で「リマインくん」と入力すると、誰とでも友達になってくれる良いやつだ。 そして、「ついつい忘れそうなこと」をリマインくんに話して、お知らせして欲しい時間を伝えると、その時間にLINEでお知らせしてくれる。 もう、めちゃくちゃ良いやつ。君なしの暮らしなんて考えられない。 実際、リマインくんに頼んだことの半分くらいは忘れている。 帰りにゴミ袋を買う、とか、家賃

雨の夜

晴れていると浮かれるくせに、 雨の音がすると、ほっとする。 それは夜、 ふとんにくるまりながら聞こえる音は 何かを洗い流してくれているようで ここにいることを、許してもらっているようで 雨の音だけがそこにある夜。 すべてを置き去りにして、 わたしは、安心して眠りにつく。

ふまじめに愛してる

好きって、 まじめに ずっと ひとより いつも 好きじゃなきゃいけないって、思ってた。 ねえ、ほんとうはさ ぜんぜん、そんなことないよ。 コーヒーを淹れるのが好きなくせに、サボってインスタントコーヒーも飲んじゃう。 毎日練習しないけど、ピアノと遊ぶのは好き。 へたくそだけど、うたっているときはいちばんたのしい。 アクセサリーは好きなのに、つけるのがへたくそ。 浮かれて買った本も、ぜんぶ読めてないよ。 うまくいかないね。 理想通りじゃないかもしれないね。 そんなふまじめ

適切な速度で

気の遠くなる痛みに、わたしは途方に暮れた。 それは、「気の遠くなるほどの激痛」というわけではなく、わたしの指先に小さく鎮座する傷だった。 荒れ、ヒビ割れ、 きっと、そういうものの仲間だと思う。 左手の中指の先が、小さく割れている。 およそ、2ミリ。 なぜか、ズキズキと痛む。 痛むことは仕方がない、と諦めていたのだけれど、タイピングが難しい。 絆創膏を貼ってみたけどダメ 角度を変えて5度挑戦したけど、やっぱりダメ。 絆創膏の違和感で、結局タイピングの速度や精度がぐんと落ちる