常識大全ver2.0の理念

常識大全の概要についてはこちら。



健常性の定義

常識大全においては健常者と非健常者を、①前提を共有し②現実世界に適応できているかどうかで定義する。前提とは思考を行うための判断材料のことである。現実世界とは私たちをとりまく客観的な世界のことで、自分が外界をどう解釈しているかという認識の世界と対比される。現実世界への対応というのは自己の中で閉じたものではなく環境の中をどううまくわたり歩くかを考えることだ。

どんな人であれ前提を欠く領域をもち、その領域では現実に適応できなくなる。そのため健常者/非健常者は固定的なものではなく誰もが非健常者になりうる。ここでいう健常者/非健常者は世間一般の意味での障がいの有無とは必ずしも関係がない。非健常者という表現に差別の意図はないことは明記しておく。

”常識”を定義する

そもそも常識って何だろう?常識と一口に言ってもマナー、教養、生活に根ざした知識などさまざまなものがある。常識大全について議論する際、お互いが考えている”常識”の定義がずれていると齟齬が生じてしまう(実際に友人と話していてそういうことがあった)。そこで常識大全で取り扱う”常識”の定義をここではっきりさせておきたい。

常識大全が指す常識とはズバリ、これだ。
”現実世界に適応するための適切な価値判断に必要となる、少なくともある程度の割合の人が共有している客観的事実”

現実世界とは認識の世界に対比される。非健常者が非健常者は認識の世界に閉じこもりすぎて現実世界の情報を参照できていない。非健常者が現実世界に適応できないことの本質は情報を収集しないことにある。認識の世界は後述する仮想世界の概念と同じである。

常識大全では価値判断(~すべき)ではなく客観的事実(~である)のみを取り扱いたい。常識は価値判断と客観的事実に分けられるが、そのうち価値判断は「民主主義国家は最もすぐれた政治形態である」などで、客観的事実は「鶏肉はにわとりの肉である」などである。適切な価値判断を下すためには客観的事実が必要だ。どんなに思考能力がすぐれていても、間違った知識にもとづいた価値判断は間違っている。論理とは前提から正しい結論を導くパターン化された手続きであり、正しい前提から始めることが前提条件となる。非健常者に必要なのは前提、つまり客観的事実の共有だ。

客観的事実に当てはまるものには規範もマナーも教養も身近な知識などがある。これらすべてを常識大全に載せるつもりだ。

ここで規範やマナーは客観的事実ではないではないかという反論もあるだろう。規範やマナーには「~しなければならない、すべき、した方がよい」という意味合いが込められているため価値判断を含むのは間違いない。だが、詭弁じみて聞こえるかもしれないが「世間では~すべきであるとされている」という言い方であればどうだろうか?規範やマナーは価値であり絶対的なものではないが、その規範やマナーが存在するということは紛れもない事実である。このように書けば価値の押し付けにはならない。規範やマナーは価値であるだけでなく、どういう行動を選択するかの判断材料となる。すなわち定義にもある「価値判断に必要な客観的事実」だ。極端な場合を言えば、規範やマナーを考慮した上であえて破ることもできる。どういう行動をとるにせよ、規範やマナーを知識として知っていることは有益だ。

「~するとよい」程度の弱い提案であれば世間的な統一見解は存在せず、別の説が存在する。そのためこの種のものは常識大全には載せない。各自でいろんな意見にふれてほしい。

客観的事実であれば何でも載せるわけではなく、その中でも多くの人が共有していて現実世界への適応という目的に資するものを取り扱いたい。あまりにも学問的な内容は載せない。行列の固有値の求め方や量子力学の不確定性原理を載せる必要はない。現実世界への適応には必要ないからだ。公共交通機関の乗り方や洗濯の仕方などを載せたい。身近で生活に関わるような知識を優先しようと思う。想定する主なターゲットが社会適応に困難がある人々だからだ。彼らは学問的なことはむしろよく知っていることも多く、彼らの弱点はもっとありふれた、一般人があまり気に留めないような知識だ。こういう知識を取り入れていくことで非健常者は現実世界に適応できるようになっていくはずだ。

ただ、少し高度な内容でも生活に関わるようなものであれば載せてもいいと思う。これはどちらかというといわゆる健常者と呼ばれている人向けだ。常識大全はそういう人たちにも開かれたプラットフォームだ。彼らは当たり前の知識は持っているがやや専門的な知識には弱い傾向があり、彼らの需要はそういうところにあるだろう。政治や経済、科学などに関する知識は生活に直結するとまではいかなくてもかかわりはある。それらを知ると身の回りにあるものを体系的に深く理解することができ、実用的な意味もある。電子レンジは電場の向きを1秒間に何億回も入れ替え食品中の極性分子を高速回転させることによって加熱を行っている。この仕組みがわかれば無極性分子の油は電子レンジで加熱されないことがわかる。知らないと試行錯誤によって一つ一つこれは加熱できる、これは加熱できないと知っていくしかない。統一的、普遍的に理解した方が広い範囲を予測できるようになるのだ。健常者がやや専門的な知識を常識大全で身につけることにも意味がある。

常識大全が生まれた経緯

私は子どもの頃に医者からASD(自閉スペクトラム症候群)グレーゾーンと言われた。今では診断の上では完全に健常者であるが、やはりASDの傾向は健在だ。

高校生くらいまではそんなに悩みを抱えたことはなかったのだが、大学生になると暇な時間が圧倒的に増える上に自分でやらなきゃいけないことが増えて自分の性格について悩むことが多くなった。深刻なものではないがなんとなく生きづらさを感じていた。

これらの問題はすべてとは言わないが常識がないというところから生じるのではないかと思うようになった。

そんなときこんなツイートを見かけた。
XユーザーのRigel_Wired @Vtuberさん: 「「積分はできるのに洗濯機を回せないあなたへ」 ってタイトルの本を出したい 日常生活を送るための基礎知識がひと通り載ってるやつ 洗剤と柔軟剤の入れる場所が書いてあったり、免許更新のやり方がゼロからフローチャートになってたりするのどうよ?欲しくない?」 / X (twitter.com)
私はこれに強く共感した。積分はできるのに洗濯機は回せないって、完全に俺だわって思った。万バズしてるしかなり好評なようで、世間的にみてもかなり需要はあるようだ。

ただ、自分の求めているものは洗濯機の回し方や免許更新のやり方など日常生活を送るための知識だけではなかった。コミュニケーションの取り方であったり、マナーであったり、もっと広い範囲をカバーするようなものがほしいなと思った。そうして考え出されたのが、常識大全だった。常識大全を作れば先ほど挙げたような自分の悩みを一気に解決すると同時に、同じように常識がなくて困っている人も助けられるのではと思った。


常識大全の中核をなす理念

一言でまとめるならこうだ。

”非健常者に集合知にアクセスできるプラットフォームを提供し、現実世界への適応を助ける”

ここでいう非健常者とは、前提を共有できておらず現実世界への適応に困難を抱く人のことで、それ以上でもそれ以下でもない。
現実世界への適応は、社会適応、つまり他者との共生のための適応に限らず、物への適応、状況への適応など多様な適応を含む。
日常世界に無秩序にバラバラになって転がっている知を体系化、集積化したものが、常識大全である。
これを通して非健常者は現実世界を攻略しよりよく生きることができるようになると私は考える。

ここからはこの中核の理念を支える、その周辺にある理念を述べていく。

現実世界への適応とは何か

これは何のために常識を学ぶのかということと同義である。常識大全における常識の定義は”現実世界に適応するための適切な価値判断に必要となる、少なくともある程度の割合の人が共有している客観的事実”であった。常識を学ぶのは現実世界への適応のためなのだ。その現実世界への適応の内容を2-4では掘り下げていく。

常識大全が目標とする現実世界への適応は以下のように分けられる。

  • 1.共通認識の獲得
    ・意思疎通の円滑化
    ・話題作り
    ・コミュティへの所属

  • 2.規範やマナーの習得

  • 3.生活能力の向上

  • 4.思考・判断能力の向上

  • 5.情報選別能力の向上

1.共通認識の獲得

共通認識の少なさは認知的不協和を生み出す。認知的不協和とは人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感のことである。非健常者は健常者と異なる認識をもつ場合が多いので、健常者は非健常者に対し不快感を覚えやすい。非健常者の言動は予測から外れるもので健常者にとってストレスになる。非健常者が常識をみにつけることは認知的不協和を減らし健常者とうまくやっていくことを可能にし、それは健常者、非健常者のどちらにとっても利益となる。

共通認識を増やすと意思疎通が円滑化される。共通認識が少ない状態ではよく誤解が起こりそれがトラブルを引き起こす。誤解を減らすためには密なコミュニケーションが必要となるが、すり合わせる事項があまりにも多いとそれにも労力がかかる。共通認識があればまず誤解が生じる可能性が減る。わざわざ言わなくてもわかるのですり合わせもそんなに要らなくなる。

共通認識を増やすことの効果はもう一つあり、それは共通の話題ができることだ。人間関係は共通の話題をきっかけにして始まり、共通の話題を通じて深まっていくことが多い。共通認識を増やせば仲良くなれる人のカバー範囲が広くなる。実際ホストやキャバ嬢などはどんな話題にも対応できるよう日々いろんなことを勉強しているそうだ。

共通認識をもっていることはコミュニティの一員として認められるための要件でもある。人間は集団への帰属意識をもつことに安心感を覚える生き物だ。

2.規範やマナーの習得

規範やマナーを習得することで、社会から追い出されずに生きることができる。それを守ることで共同体の一員として認められ、社会になじむことができる。(あまりにも自明)

3.生活能力の向上

料理をするのにも、洗濯をするのにも、公共交通機関に乗るのにも知識が必要だ。こういう類のある程度パターン化されているものならまだいいのだが、日常生活の中にはそうでないものもある。パターン化されていないものを考える場合幅広い知識が必要になるものだ。勉強やオセロ、将棋などとは異なり、日常生活は考えるべき範囲に制限がない。日常生活は閉じた世界ではなく、今目の前にしている対象のみについて考えればいいわけではない。例えば友人の恋愛相談に乗る場合、一見関係のなさそうなその友人のバックグラウンドについても考慮に入れなければならないだろうし、その友人の地雷を踏みぬくような発言は控えなければならないだろうし、友人とその恋愛相手両方の好みを把握してその分野に関する知識を持ち合わせていた方がいいかもしれない。

4.思考・判断能力の向上

思考や判断を行うために必要な能力は、(①思考・判断の材料を集める能力)×(②それをどれだけうまく活用できるか)で決まる。どちらかが欠けてもいけない。①については常識大全で補うことが可能だ。生活能力のところでも述べたが、特殊な場合を除きある事象を考える場合はほぼ無限ともいえる要素を考慮しなければならない。多くの事象は互いにつながっているからだ。社会問題などを考える際も多角的な視点が必要になる。原子力発電は事故を起こしたときに放射線がまき散らされ危険だという見方もあるが、二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーだという見方もできる。”健常者”からの需要が高いであろう教養も思考や判断の材料になる知識の一つだ。教養というのは物事を捉えるいろんな視点を与えて思考に深みをもたせてくれるものだと思っている。

5.情報選別能力の向上

現代は情報社会であり、信頼性のない情報がいたるところにはびこっている。情報の真偽を見抜くために必要なことは①ソースを確認すること②他のさまざまな情報を使って検討することだ。②は他の情報と一致するか、あるいは整合性があるかを確認するということだ。それを行うためには複数の情報が必要で、常識があればそれをそのうちの一つにできる。「京大の熊野寮生6人のうち建国記念の日を知っていたのは1人で、1人は真珠湾攻撃を知らなかった。熊野寮という過激思想の飛び交っていてなおかつ外部からの情報が入りにくい環境にこういう基礎知識が欠落した子がいるのは過激思想に染まるリスクが高く危険だ」という内容のツイートを見たことがあるのだが本当にそうだと思っていて、常識がないと情報の真偽を見抜くための材料が乏しくだまされやすくなってしまう。

常識大全だって必ずしも正確な情報が載っているわけではないが、間違った情報だって情報の比較検討に寄与する。複数の異なる情報をぶつけ合うことで正しい情報に近づくことができる。常識大全の情報を判断材料の一つとしてもっておいても損ではない。

万人のための常識大全

常識大全は現実世界に適応できない可能性をもつすべての人々のためのものである。いわゆる非健常者は規範・マナーや生活の知識といったものを求めているであろうし、健常者から需要が高いのは教養などであろう。常識大全はそのどちらも載せるつもりだ。どちらも載せることで、健常者も非健常者もこのサイトにやってくることになる。常識大全はどこまでが常識の範疇であるかをユーザーの判断に委ねるつもりであるが、そのためには多様な人々に判断してもらわないといけない。すべての人を常識大全の対象とすることはその判断を行う人が偏るのを防ぐこともできる。

ASDのために

常識大全ではASD的傾向が強い人を最重要なターゲットとしたい。ASDは常識に関して最も困難を抱えているタイプの一つだと思うからだ。自分もそういう傾向をもっていて力になりたいという気持ちも強い。もちろん常識大全は前提を共有しておらず現実世界への適応に困っているすべての人のためのものだということは強調しておきたい。

ASDとは

ASD(自閉スペクトラム障害)とは社会性の障害、コミュニケーションの障害、反復性の行動/限局性の興味といった特徴をもつ発達障害の一群である。詳細な特徴を以下に示す。注意してほしいが、ASDの人すべてが以下に挙げる特徴をもっているわけではないし程度もさまざまである。

  1. 社会性(社会的相互作用)の障害
    ・周囲に関心を示さず、まるで周りに誰もいないかのように孤立的にふるまう。
    ・相互応答性(他人と自然に動作や感情が共鳴すること)が低い
    ・相手の気持ちが理解するのが苦手。たとえ頭では理解できたとしても心から共感するのはむずかしい。
    ・顔や表情を見分けられない。
    ・他者の視点で考えるのが難しい。
    ・暗黙の了解や前後の文脈を理解することが苦手。
    ・他者の思惑とは無関係な真実を追求する。
    ・人より物に関心をもつ。

  2. コミュニケーションの障害
    ・双方向のコミュニケーションが苦手。受動型(相手から自分への一方通行)と積極奇異型(自分から相手への一方通行)と孤立型(コミュニケーションをまったくとろうとしない)がある。
    ・言葉を額面どおりに受け取る。
    ・あいまいな表現を理解できない。
    ・日常会話が苦手。

  3. 反復性の行動/限局性の興味
    ・同じ行動パターンに固執する。
    ・狭い領域に深い関心をもつ。
    ・細部に過剰にこだわる。
    ・秩序やルールを好み、整理・分類・規則を作るなどシステム化が好き。(常識大全作ろうとしてるのまさにこれやんけ…)
    ・細部に注意が向かいがちなので全体を統合する能力(統合能力)が弱い。

こちらのサイトも参考になると思う。

また下に貼ったもの以外にあまりソースは見つからなかったがASDはエピソード記憶が弱いというような話をどこかで聞いた覚えがある。エピソード記憶とは自分が体験したものに関する記憶である。

ASDは常識が身につきづらい

ASDはせまく深い興味、他者と関わる機会の少なさ、暗黙の了解を汲み取る力の乏しさ、他者の感情への疎さ、そしてエピソード記憶の能力の欠如により常識がなかなか身につかない。常識というものは普通経験によって自然に身についていくが、ASDはそうならない。

まず経験そのものを得る機会が少ない。せまい範囲の物事に熱中してしまうためそれ以外の分野の情報があまり入ってこないし、交友関係がせまいことにより触れる情報がかたよりやすい。

さらに、経験を得たとしてもそこから常識を学びとって生かす能力が低い。自分の興味のあることに意識を集中させてしまいそれに関係ない情報が右から左へと流れてしまう。暗黙の了解や周囲の感情を読み取るのが非常に難しいので、自分の行動に自分でフィードバックをかけるのは困難を極める。エピソード記憶が弱いので現在の状況から過去の経験を呼び覚まして現実に適応する行動をとるということも難しい。

だからASDはスポンジに水がしみこむように自然な形で常識を吸収できないのだ。常識が欠落していることに気づいたとしても、これらの特性はなかなか変わらないので常識を身につけるのは簡単ではない。ASDが常識を習得するには経験以外の意識的なアプローチが必要だ。それが常識大全だ。

ASDは想定外のことに弱い

ASDは想定外のことに直面すると強い不安を覚える傾向があり、ひどければパニックを起こす。予測のできないこと、経験したことのないことに不安を感じる。ASDが形式やパターン、自分のやり方に固執することはこの裏返しであるといえる。ASDは健常者以上に常識を習得するメリットが大きいのかもしれない。想定外の事態にパニックにならないためには、必要になったときにその場で調べるよりも必要になる前からまとまった知識を脳内にインストールしておいた方がよい。もちろん実際に行動を起こして多様な経験を積むというのは常識を身につける上で重要なことではあるのだが、ASDにとって未知の体験というのは苦痛になりうる。経験を積むにしても先に知識を入れた方がよい。そのような意味でもASDには常識大全が必要なのだ。

ASDには文字情報での学習が効果的

 口頭で伝達される知識とちがって紙で伝達される知識は統合能力の弱さを補える。口頭だと情報が次から次へと現れては消えていってしまうが、文字だと全体を同時に見渡すことができるからである。
 また、紙で学ぶ知識はエピソード記憶ではなく意味記憶である。意味記憶とは場所や時間に依存しない一般的な知識・情報についての記憶のことで、たとえば「地球は1年で太陽のまわりを一周する」などである。ASDは文字から意味記憶として情報を取り入れるのには比較的長けているので、常識を経験から取り入れるよりも文章から取り入れる方がよい。
 そのためASDにとって常識を身につける上で常識大全は有効な手段となるだろう。

客観的事実の集積

常識大全で扱うのは客観的事実だと述べたが、なぜ客観的事実を集める必要があるのか。なぜ価値判断ではなく客観的事実なのかという思想的な根拠を述べていく。

絶対的な価値判断は存在しない

銃規制が賛否両論に割れるように価値判断は個人の間で異なり、絶対に正しいとされている価値判断はない。価値判断はさまざまな価値判断のぶつかり合いの中から形成されるべきだ。常識大全はそのようなものについて公式見解を押し付けることはしない。公式見解を作れば健常者が決めたルールを絶対視してしまうこととなる。私が常識大全で掲げる目標は、「非健常者を健常者に従わせること」ではなく「非健常者(広義)がよりよく生きる」ことだ。現在の常識が必ずしもすぐれているとは限らない。常に常識を疑いアップデートさせていく必要が人類にはある。常識をアップデートさせてきたのは大抵非健常者側だった。地動説を唱えたコペルニクスも、戦国時代の風雲児、織田信長も、光の速さは誰から見ても不変という奇想天外な論を提唱したアインシュタインもそうだ。そして彼らの多くははじめは健常者側から迫害された。次第に非健常者が生み出したものは受け入れられて新しい常識となる。これは”健常者”にも恩恵をもたらす。アインシュタインの突飛な発想がなければGPSは作られておらず今よりも暮らしは豊かになっていないだろう(GPSには相対性理論が応用されている)。健常者の作り出した”常識”を経典のように崇め奉ってしまうことは、非健常者にとって住みにくい世界を作ることになる上に"健常者"の現実世界への適応をも妨げることとなり、常識大全のポリシーに反する。

また、文脈の数だけ常識はある。その場合、”すべての文脈で成り立つ統一的な見解”を示すことに意味はない。文脈には状況やコミュニティーがある。人を殺すことは悪とされる場合が多いが、凶悪な犯罪を起こした人間を法の下で殺すことは擁護されうる。これは状況により価値判断が異なる例である。食人行為は日本や欧米では禁忌とされているがパプアニューギニアの先住民の間ではそれは儀式として当たり前に行われている。これはコミュニティーにより価値判断が異なる例である。状況やコミュニティなどの文脈一つ一つにそれに対応する常識がある。一つの価値判断のみをとりあげるというのも不適切であるし、かといってコンテクストとセットになった膨大な量の常識すべてを網羅するのは技術的にむずかしい。ただしマナーや規範のうち主要なものについてはそれが通用する範囲を明記した上で載せてもいいのかもしれない。非健常者はマナーや規範というものを理解するのが苦手なわけで、載せるデメリットよりはメリットの方が大きかろう。

現実世界エミュレータ

非健常者が現実世界に適応できないのは外界から客観的な情報を取り入れることが少なく認識のゆがみが大きいからだと考えている。現実世界エミュレータとは、自分が捉えた認識の世界(仮想世界)を客観的な現実世界に近づけていくために脳内に搭載されていると考える仮想的なエミュレータである。これは外界に存在する客観的な情報をできるだけバイアスを含まずに仮想世界にコピーしていくという役割を果たす。これにより現実世界を正しく予測するための客観的な材料が仮想正解の中に蓄積されていき現実世界への適応が容易になる。常識大全の目標は本質的には非健常者の現実世界エミュレータを作動させることである。詳しくはこちらの記事で紹介している。


常識大全の代替手段は他にないのか

現実世界への適応のためには現実世界エミュレータを使って外界から客観的な情報を取得する必要があると述べた。情報収集の方法はいくつかある。

  1. ブラウザ検索

  2. 人に聞く

  3. 経験

  4. マスメディア(新聞やテレビなど)

  5. 書籍

上の2つは能動的で、ほしい情報がピンポイントで手に入る。次の2つは受動的で、流れてくる情報を選べない。書籍はその中間である。

能動的な情報取得を行うためには、ある程度前提知識が要る。非健常者は「知識を手に入れるための知識がない」状態になっているのだ。

まず、知識がなければ調べようという考えに至らない。たとえば山で見つけたキノコを食べるかどうか判断する場合を考えよう。それは毒キノコである可能性がある。あなたは毒という概念、そしてキノコには毒があるものが多いという知識がある。だから毒キノコについてインターネットで調べたり周囲の人に聞いたりすることができる。しかし、毒という概念、そしてキノコには毒があるものが多いという知識の両方がなかったらそもそもそれが毒をもっているという可能性を想定することができず、調べるよしもない。

調べようという考えには到達できたとしても、知識が少なければ調べたときに引っ張り出せる知識にも限界がある。質問の仕方で得られる情報量はかなり変わる。「物理のことを教えて」というのと「相対性理論のことを教えて」というのとでは得られる情報の詳しさが全然違う。物理のことを教えて、では何を教えていいのかわからない。また、検索エンジンでの検索の場合的確なキーワードを入れなければ信頼性のある情報源にはたどりつけない。wikipediaやまとめサイトばかりが出てくることもある。

受動的な情報の取得では必要な情報だけを手に入れることができないため知識の習得という面では効率が悪い。常識がない人がそのことを自覚するにはある程度の成熟を待たなければならないことが多い。常識大全を見にくるような層は高校生以上と見積もっている。彼らはもうすぐ社会に出るかあるいはすでに出てしまっている。社会人になっても失敗しながら覚えていけばいいじゃないかと思うかもしれないが、社会では一度の失敗が許されないことも多々ある(自分も実際そういう経験をした)。大人になってしまった非健常者は急ピッチで常識を整える必要があるのだ。広くアンテナを張り経験を積むというのは大事なことではあるが、そのような効率の悪い方法だけに頼ることはできない。

常識大全であれば知識が体系化・集約化されているので能動的かつ受動的な情報収集ができる。自分の知りたい情報を検索することもできれば、その過程で目的としていた知識以外の知識と偶然出会うこともできる。これによりそれぞれの弱点を補いあうことができる。もともとの知識が少ない状態からでも常識を身につけることが可能な上、情報収集の効率がいい。

本当に常識大全の代替はないのだろうか?

人に聞くという方法は有効といえば有効である。質問のしかたが悪くても体系的に情報を出してくれる場合もあるからだ。その場合、能動的な情報収集の弱点「知識を手に入れるために知識が要る」を解消することができる。しかし、非健常者には質問をするための人間関係が少ない。非健常者が十分な人間関係を築くためにはまず常識が必要だ。となると先に常識大全で常識をインプットする必要がある。

またこれまであえてとりあげてこなかったが書籍はどうだろうか?実はこれも能動的・受動的な情報の弱点をある程度解消できている。情報がまとまっているので知識が少ない状態からでも情報を取得できる。どんな内容の本を手に取るかは自分で決められるのである程度自分の知りたい情報にしぼって情報を入手することもできる。目次や索引を使えば知りたい情報をピンポイントで当てることも可能であろう。かなりいい線を行っている。しかし、常識全般を身につけたい場合本を入手するには金銭的コストがかかりすぎる。専門的な内容が含まれている場合もあり、常識を習得するという目的を考えると効率がいいとはいえない。

wikipediaは情報が体系化されており常識大全の代わりになりうると思う人ももしかしたらいるかもしれないが、これは専門的すぎる上に情報量が多すぎる。常識大全は一つの記事につき1000字程度で書くつもりだ。

やはりそう思うと、常識大全から常識を学ぶのがいちばんいいのだ。

最近では健常者エミュレータというサイトが似たような役割を果たしているが、それとの違いについはこちらをご覧いただきたい。


知識を得るための知識の提供

前章で語ったように前提知識がないと知識を得るのは難しい。常識大全では知識を得るために最初に必要となる知識を非健常者に届けたい。そのためあまり高度な内容を載せる必要はない。そういう知識は常識大全で身につけた知識をもとに各自で調べてもらえばよい。

とりあえず、やってみる

結局のところ、私を突き動かしているのは好奇心なのかもしれない。常識の体系を作ったときにそれがどのようなものになるのか、その影響はどのようなものになるのか、とてもわくわくする。常識大全の理念はわかる人にはよくわかると思うがわからない人にとっては本当にわからないだろう。しかし理念に対する批判というのはパッションの前では意味をなさない。とりあえず、やってみる。


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