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「選択できる」ことの残酷な側面

「人生は選択である!」

なんて、子どもたちと話をすることがあります。

「勉強する・しない」も自分の選択ですし、「学校へ行く・行かない」も選択。リアルな話。先日、教育委員会主催の研修会へ参加したのですが、教育委員会宛てに、「いつから学校へ行くことが選択性になるのですか?」という問い合わせがくるみたい。

あらゆることがオンライン化された今、保護者も学校へ行くことを選択性としてもよいと感じているのでしょう。

どっぷりと学校現場に片足を突っ込んでいる身としては、登校選択制に賛成しつつ、だとしたら学校の魅力アップを真剣に考えないといけない!とも感じています。

ここ最近、数十年アップしていない給料のヤバさが話題となりましたが、それと同じくらい、数十年前と変わらない教え方をしている組織はマジでヤバいでしょう。

各学校、各自治体で「研究」と銘打ってチャレンジしているのですから、これまでの成果を踏襲しつつ、現代の子どもたちにとって必要不可欠な「学び」をデザインしていかないとなぁと個人的には思っています。

そんなこんなで本題です。

本記事では、一昔前に比べて「選択」の幅が広がっていることを取り上げます。もちろん、自分で選択するということは、非常に大切で、人生の満足度アップにもつながることが分かっています。しかし、良いことばかりでもない。

そんな、重箱の隅をつつくような内容をまとめましたので、「ふーん。」くらいのテンションで読んでみてくださいね。

▼「選択できる」ことの残酷な側面

基本的に「選択できる」ということは、素晴らしいことであるともう一度ダメ押しで書いておきます。

しかし、往々にして僕たちは選択を間違える。

間違える理由も多種多様なのでここでは触れませんが。「あぁ、あの時〇〇しておけば。」なんて後悔につながることってありますよね。

これぞ、THE・選択ミス。

多くの人たちは、全て正しい選択ができるとは限らないのです。そして、ここに残酷さがある。

当然のことを堂々と書けば、

「一方を選択したということは、もう一方は選択しなかった。」

ということです。いわゆるトレードオフってやつですな。

だからこそ、「あぁ、あの時向こうを選んでおけば…」という後悔につながる訳です。

ただ、この後悔をしている状態。もしかすると、豊かになった証拠だと思いません?

何を言っているのかというと、「選択できること」自体が幸せだということ。

例えば、テクノロジーが猛威を振るっていない一昔前は、「家に帰ったら家族の時間一択」だった頃もある。

少し極端ですが、「みんなで食卓を囲み、同じテレビ番組を見ながらあーだこーだ言う」みたいな日常風景がありふれていました。当然、急な遊びのお誘いとか、仕事の連絡なんてのはある意味やりずらかったのです。

現代はどうでしょう。

帰宅してからの楽しみは無限大。その中に「家族と…」という選択肢は入っているでしょうか。

「家族」ではなく「スマホ」と約束していませんか?

どこでも、だれとでもつながりやすくなった世界は、選択肢を広げつつプライベートな時間を奪い去りました。

もちろん、プライベートを選択すればよいのですが、必要以上に”つながり”を求めることで、これまで大切にされてきた”つながり”はないがしろになっているのではないでしょうか。

時代は常に移り変わり、世の中の風潮は、「超個人主義」から「コミュニティ」へと変化しています。

その変化の理由には、「豊かな人間関係が人生の幸福度に直結する」という根拠によります。

繰り返しますが、選択はトレードオフ。

自分の人生において何が大切かなんてその場では選びきれないかもしれませんが、社会は選択を求めてくる。

ぜひとも、自分の人生観にとって長期スパンで活きてくる選択をしたいものです。

▼まとめ

本記事では、「現代は、選択の連続である!」という内容をまとめました。

ぜひとも、後悔のないよう日頃から自分の「価値観リスト」を意識して、簡単な人生設計をしておきましょう。



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