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シンギュラリティ時代とはどのような時代か

シンギュラリティとは何なのか

シンギュラリティとは
「シンギュラリティ(Singularity)は英語で「特異点」の意味。「人工知能(AI)」が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、または、それにより人間の生活に大きな変化が起こるという概念のこと」である。(it辞典よりhttps://www.otsuka-shokai.co.jp/words/singularity.html抜粋)

AIが人類の知能超える臨界点、それがシンギュラリティの時代である。
シンギュラリティの時代とは、いま現在私たちが生きる時代と何が違うのか。そもそもシンギュラリティ時代とは何なのか。

シンギュラリティ時代の把握


仮に私たちは今一つの時代の移行期にあるとしよう。
シンギュラリティの概念をまだ実感としては得ていない現代を中間点とすると、シンギュラリティを知ることができない時代(知るすべもない時代)とシンギュラリティの恩恵を被ることができる時代の二つの時代が存在するはずである。

となると、シンギュラリティは何を変えるのか、明確なアンカーポイントが欲しい。ここで定義に立ち返ると、人類の知の体系を大幅な更新が予想されることがわかる。シンギュラリティが人類知を更新するのであれば、現在の人類知の発展の流れを一つの時代区分として採用するのが妥当ではないだろうか。

近代のその先


前章では、これからシンギュラリティ時代を人類知の発展の歴史の延長としてとらえることを明確にした。人類知を社会学的に読み解いた場合、やはり歴史区分は古代、中世、近代の区分方法が望ましい。シンギュラリティが成り立つ新時代は近代のその先だととらえなおすことができるだろう。

近代は大きくとらえると主権国家、資本主義、市民社会の成立によって始まった時代のことである。そして近代を迎えた19世紀に新たな学問が勃興し先の成立に対応する形で政治学、経済学、社会学が誕生していった。

これらは近代が持つ現象のそれぞれを分析していくために生まれた学問であり、現象(=環境)に先行する形で学問が勃興している。学問の一つの意義として問題解決の模索がある。近年実学ばかりが重要視される傾向にあるが、それは実践的な知が求められている証拠でもある。実用を理論よりも重視する際、人は問題に直面しているときである。何か直近に困ったこと、課題があるからこそ実学の知が必要になってくるのだ。実学の知の前には往々にして課題が存在し、それは個人個人の環境(その時の状況)に起因する。シンギュラリティとの違いはこのようなところかもしれない。結論から言うとシンギュラリティは知の前に環境による前提がない。

シンギュラリティ時代のリアル


シンギュラリティはまずAI発展の結果であるということは自明のことだ。AIが人類知を超えたその瞬間AIは我々人類の知を超えるのである。
日本でレベル3の自動運転が解禁された。AIの認知プログラムにより一切自己のない道路を作ってくれるとすれば僕らはニュースで自動車事故が起こる映像を見ることはなくなるだろう。仮にそのようなことが実現すれば、自動車事故という課題を一つ乗り越えたことの証にもなるだろう。

しかし、一つの決定はまた一つの問題を生む可能性を秘めている。自動車事故という課題に対して自動運転というアンサーを提供することによって違う角度の課題が現れるかもしれない。そうなった場合今度は誰が、どのような対処を行うのだろうか。

すでにシンギュラリティの時代に到達しているのであればAIが対処をするだろう。この時AIは自分自身が課題、問題の対象であり、課題解決の担い手になっているのである。AIはすでに問題解決の手段、分析の形式としての人類が行う学問以上の役割を果たしているのである。つまり、問題解決としての学問と身の回りの問題環境の変化が同一のAIという存在から起こるということである。

AIによる社会システムの構築


相互に対応している学問の問題解決の部分と問題環境が変化していく循環の関係は、社会システム論のオートポイエーシス的思考を用いて考えることも可能かもしれない。

オートポイエーシス的システムとは組織的に閉じた自立したシステムであり、内部の構造はインプットもアウトプットもされない。環境の影響に沿って刺激され適応をしていくがシステムの内部によってシステムの状態は規定される。つまり、学問の問題解決の部分と問題環境はそれぞれがそれぞれ流動的に対応していくという関係で成り立っており、これら以外の要素(環境とそれを分析する手段)以外がこれらの循環への効果を必要としないことが言える。社会システム論的に考えるとシステムと環境が混在している状況は複雑な状態であるから、システムと環境を分けることによって複雑性を縮減することを目指して、システムは形成されているのだという。

AIによる問題がAIによって解決されるのであれば、それは一種のオートポイエーシス的属性を帯びていると考えることができよう。オートポイエーシスは自立したシステムである。だとすれば、AIによるシステムと区別された環境とは何なのだろうか。


しかしそもそもAIが自己準拠システムとして成り立つためには、AIが一旦問題発生を担う我々の実際の環境として社会に浸透する必要があるのではないか。AIが自身で問題を発生させることができなければシステムになりえない。だが、解決手段がAIであれば問題の発生が人的なものなのかAIによるものなのかは時間の問題になるだろう。問題が発生すればするほどAIの解決からAIに侵食されるリスクをはらんでいるからである。では、検討すべきはAIによる問題解決は人類による問題解決をどのようにおびやかすかである。AIによる問題解決が一般化してしまった時点でAIは自己準拠的社会システムを成立させる。AIにとってシステム以外、つまり環境に人類はなるだろう。すなわち人類は社会から疎外されるのである。

一旦まとめよう

シンギュラリティは人類を超えた知を生み脱すことができる。

そのため、シンギュラリティの時代を近代のその先に置き、近代の学問の発展の流れを近代特有の現象の分析と対処、つまり問題解決に見た。実学は環境が先行して存在し、それらを発見して、分析し、科学的手続き(検証と実験、理論的敷衍、結論)を通して成り立つということである。

しかし、シンギュラリティ時代では問題環境と学問の問題解決の部分が同時並行的に成り立つ。それゆえ、AIに自立的な実学が運用可能だということである。

AIは自身の中で問題発生と解決を行う社会システムであるから、人類は社会システムからは疎外されることになる。

今までの話を一言でまとめるとするならば、人類は社会において何かを実学する必要がなくなったのである。

人間が生み出した物が人間を離れ、逆に人類を支配するようになり、人類は疎外される。

AI社会=監視社会


AIが支配的な未来の社会は人類にとって息苦しものになるだろうか。常にすべての情報が監視され、保管され、運用される。我々はアマゾンで商品を頼み、グーグルで何かを検索する。全てが監視され窮屈ではないのか。

大澤真幸は「現代の現代性」の中で第三者の審級の失効によって現代は監視社会を許容するようになってきたという。パノプティコンは見られている可能性を明示するが、その可能性から「見られているから気を付けよう」と自己反省するか、「常に見られてるからどうでもいいや」と諦念がうまれてしまうか、どちらもが十分可能だとする。デジタル社会の現代は常に見られている可能性がほぼ100%まで高められてしまったからこそ、たとえ監視社会であっても気にすることがなくなってしまったのだ。このことは第三者の審級の失効といえる。第三者(自分や相手以外)からの審級(裁きの判断)は監視されているかどうかの不確定な存在がいて成り立つ。お天道様が見ているから盗みはやめておこう、といったような不確定なおてんとうさまという存在を自身に内在化させて初めて自身の中で判断する基準が自覚的に生まれるのである。案外AIの監視は現代の人類にとっては抵抗がないかもしれない。

「コロナ禍におけるパーソナルデータの在り方」という記事では「携帯電話の位置情報のような機微性の高い情報であっても、匿名化されている限り、政府の利用を許容する割合が74%にのぼる」と記載されている。また、監視カメラの設置に関してのアンケートでは監視カメラを設置するのに賛成の人が70%いた。


確実にプライバシーの侵食に対しての許容度は上がっている。

AI監視社会でどう生きるか

AIによる人類の疎外は免れざる段階まで進行している。とすると、AIは人類にどんな関係性があるのだろうか。AIは社会を勝手に成り立たせてくれる。

たとえそれによってプライバシーの侵害などの不都合があったとしても、社会を成り立たせてくれている恩恵に比べれるべくもなく、またそれも問題として回収されるためAIの解決すべき問題の範囲になる。

また、現在の人々はそのような問題を案外気にしないかもしれないという話もある。社会の中に人類はいるが社会に対して何も行動する必要がないのである。


われわれは、ただなにも考えずに動物のように生きることが可能になり、そして自身が許容しても許される社会になったのである。さぁ、私はただ寝て、食べ、遊ぶ生活をするとしよう。そう、鳥や虫や獣のように。


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