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障碍者アートの域を、自然に脱する

 ヘルパーさんと外出したついでに、10月29日から11月六日までクリエイト浜松で開催されていた、第24回静岡県障碍者芸術祭に出品されている自分の作品を見に行ってきた。
 前回はまこらギャラリーにて行った写真詩展の作品の中から2作出品させてもらった。ちなみに今回は写真を付けてくれた友人でもある高山笑韻(たかやましょういん)とのユニット、cocolony(ココロニー)名義で出品しているのだが、このユニット名を公に公表したのは初めてのことである。

 障碍者芸術祭は1階と2階で行われていて、私の作品は2階にあるとのこと。
 コロナ渦の影響からか、2階に上がり受付を通る時、スタッフの方から来場者名簿に名前や住所や電話番号を書くように言われた。今ではどこに行ってもそうなのかもしれないが、コロナ渦真っ只中の時にもほとんど外出しない生活を送っていた私は、今だにこの一連の作業と代筆が終わるのを待っている時間がどうもまだ慣れない。

 展示会場は思っていたよりも広かった。
 陶芸作品やしりとり絵などの作品の中にそれはあった。
 前回の写真詩展の時と同様、1部の詩に点字を添えていたのだが、それもちゃんと展示されていた。

 それからもヘルパーさんの説明を聞きながら一通り作品を見て回ったのだが、じつは会場に入った時から私はずっともやもやを抱いていた。それはほとんどの作品に触れなかったからではない。私の作品も含めて、1.2階のフロワーに展示されている作品たちを全て『障碍者アート』として括ってしまうのはどうなんだろうと思ったのだ。
 この時3階のフロワーでは健常者のアート展が行われていて、今回の障碍者芸術祭はそのイベントと同時開催ということになっているそうだ。
 私たち障碍者のアートと健常者のそれとはいったい何が違うのだろうか。アートの分野でも障碍者と健常者が分けられているのは何だかとても残念でならない。
 もちろん障碍者アートの作品展で展示してもらえることだってなかなかない機会だ。それだってとても嬉しいし、ありがたいことだと思っている。それでも自分の創作活動は所詮障碍者アートなんだなあと思うと、何だかちょっと空しくなるのも申し訳ないが事実なのだ。

 なぜそんな風に思うのか。それは自分は障碍者だから物書きをしているわけではないからだ。ただたんに書きたいから、書くことが好きだからやっているだけなのだ。
 たまたまそれを書いている、あるいは作っているのが障碍者ってだけで、何もすごくはないと思う。そしてそれは障碍を持ちながらも何かしらの活動をされている人たちもきっと同じ気持ちのはず。

 今回の障碍者芸術祭を見に行って改めて強く思った。障碍者アートの域を、自然に脱することが、今の私の大きな目標なのだと。
 この『自然に脱する』というのが味噌である。
 私はべつに「自分の作品は障碍者アートではない」と声を荒らげて主張したいのではない。そりゃあ10代20代の頃だったらそれは突っ張っていてかっこ良かったかもしれないが、もう35にもなる女がそんなことを叫びながら粋がっていてもダサいではないか。
 繰り返しになるが、私は障碍者だから物書きをしているわけではないのだ。ただたんに書きたいから、書くことが好きだからやっているだけなのだ。
 障碍者だとしても、健常者の中にもさり気なく並べてもらえるような作品を作る、そんな表現者に私はなりたい。

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