得たものではなく”出したもの”が自分の存在となる
私が大切にしていることで、
”自分=場所になる”
という考えがある。
これは、ヨガ哲学の本山博先生のいうところの
「場所的”個”になる」という事であり、
ラムダスが大切にしている
バクティーヨガの考えでもあり、
エドガーケイシーが言うところの、
「祝福の水路」の意識でもある。
『自分=場所になる』
と言うのは、
自分(自我・エゴ)を手放し、
もはや空間として、誰かが心地良い人生を送るための(成長し歓喜する人生を送るための)場所(箱)になる
という感覚。
自分(自我)をなくすというのは、自分がいなくなってしまうのか?と言われるとそうではなくて
神様意識を下界(日常の実生活の暮らし)におろすときの
橋渡し役になる
ということ。
神意識を伝える仲介人になるようなイメージ。
だから、そこには自我はいらない。
ただ自分が場所・空間となり、
或いは自分が水路となり(筒となり)、
自分のできることを誰かのためにやったり
純粋に自分ごととして誰かを応援する。
自分がエゴを手放したとき、本当の力が湧いてくる。
そしてその力を使ってその私という媒体を通して世界に出したものが、私の正体となる。
だから
自分が得たもの、自分が持っているもの、自分が見せているものではなく
自分が外に放ったエネルギー、自分が作って置いておいたものが、
それらが”私”として認識され、誰かの意味をもたらす。
無論、エゴはいらないのでそれで誰かに賞賛される必要もないのだけれど、
単純に、誰かのためにエゴを手放して一生懸命何かをしている時というのは、神と繋がっている時間でもあり、
時空が歪んだようにゾーンに入って没頭でき、
何より、心から満たされる至福の時間でもある。
この時間を、人生でどれだけ多く作れるか。
それが、人生の豊かさにも大きく繋がっていくように思う。
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