見出し画像

送球漂流記 vol.5

蘇る記憶たち

昨日紹介した柏崎ジュニアハンドボール。

その1期生として、僕はクラブに所属しました。当時、水泳や陸上、剣道、バスケなどしておりましたが、ハンドボールという競技に出会って、その面白さに取り憑かれました。

Vol.4⇒

それからの記憶というものは、事細かに覚えているわけではないですが…中学から高校とカテゴリーが上がるにつれての記憶を引っ張り出すと「厳しかったな練習」「よく耐えたな」など、練習がとにかくハードだったことを一番よく思い出します。

そんな「しんどかった」記憶も、今では高校の先輩方や同期の仲間たちと共有し、ときには笑い話として酒の肴としています。単なる「しんどかった」日々ではなく、良き仲間とのかけがえのない財産になっているように思います。

熊本オムロン

そんな「蘇る記憶たち」ですが、僕のハンドボール人生において決定的な記憶というものが存在していたようです。

それは中学生のときに地元で観戦した日本リーグの試合です。当時、2009新潟国体を控えていたこともあり、今とは異なり行政からの予算というものが相当あったのだと思います。そのため、地元新潟県においても日本リーグの試合を観戦することができました。

高校のときにも、日本リーグの試合が地元で開催され、そのときにソニーと合同で練習までさせていただきました。しかしながら、中学生だった僕にとって熊本のオムロンの試合に、そしてオムロンというチームに感動したのでしょう!手紙を書いたのか、花束を贈呈したのか、そのところは曖昧なのですが、当時のオムロンからお手紙とサイン色紙、そしてサインボールまでもいただいたのです。

画像1

画像2

画像3

もうかれこれ17年ほど前です。当時、日本リーグの試合は簡単に観ることのできるものではありませんでした。ゆえに、日本リーグの試合を観て、その選手やチームからサインをもらえるなんていうことは、超一流芸能人からサインをもらうことと同じような価値がありました。

おそらく、17年も前のこれらを持っている人間なんて限られているのではないでしょうか。あの当時の感動と興奮こそが後々のハンドボール大好き人間に育ててくれたのでした。

記憶はご縁である

ときとして、記憶というものは「ご縁」という形になって現れることがあります。

あるときの出会いが後々の再会となる。あるときの関わりが後々の絆となる。記憶の扉を閉めているままでは気付けないことかもしれませんが、記憶の扉を開けたときに実は多くの「ご縁」に恵まれていたことに気づかされるかもしれません。

柏崎ジュニアに1期生として所属して出場した全国小学生大会。会場は、後に私がお世話になる京都の地でした。そのときに対戦した大分県のチームメンバーは、後に私がインターハイで対戦した大分県の高校チームメンバーでした。高校のときのソニーと合同練習をさせていただいた記憶は、私の京都での大きな出会いに繋がっていたこともありました。熊本オムロンの試合を観戦した記憶は、後に銘苅さんをお招きして新潟で開催したメカデミーのご縁に通じていたのかもしれません。

このように記憶の扉を開けたならば、少々強引にでもあらゆるご縁となり得ます。失敗した経験も、上手く行かなかった経験も、後にその記憶の扉を開いたとき、大きなご縁となるかもしれないと思えば、これからの人生はもっと楽しみになるのではないでしょうか。

黄泉より還る

「蘇る」の語源は「黄泉(ヨミ)より還る」とも言われているそうです。古事記では黄泉國という死者の国が出てきます。死者の国から戻ってくることを「蘇る」と言う。黄泉は死者の国とされる一方、地中の泉「こうせん」とも解釈されることがあるそうです。

今あらためて、ハンドボールの記憶を辿ればネガティブな「しんどかった」ではなく「楽しかった」思い出がたくさんあります。あのときオムロンの試合を観て、感動したことやサインボールや色紙、手紙をもらって嬉しかったことのように、そんな素敵な記憶たちが掘れば掘るほどにたくさん出てきます。

私たちの経験が、良いことも悪いことも含めて今の自分を形成しているのだとすれば、記憶の黄泉(こうせん)は黄金の泉です。そこから蘇る記憶たちは後にご縁となって現れ、私たちの人生を豊かにしてくれるかもしれない黄金たちです。

ハンドボールの経験が、ここまで多くのいろいろな場所に影響してくるとは当時思いもしませんでした。あらためてハンドボールをやっていて良かったと思い、スポーツは素晴らしい経験を与えてくれるものだと確信しました。

スポーツを通して、ハンドボールを通して、一人ひとりが豊かになれるような、そのような空間をこの新潟でも築いていきたいです。

次回、vol.6は「お金か名誉か」です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?