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触れたら消える【短編】
急速に膨れ上がる母の胎内で、私たちは同時に生まれた。でも、私たちが一緒にいられたのはほんの一瞬だったのか、40万年だったのか。
あなたはいずこへかと消え去り、そして私一人が残された。本当は私も消え去るはずだったのに……破れた。
しかし、あなたは永遠に消え去ったわけではない。ときに雷鳴とともに現れ、そしてすぐにまた去っていく。
★ ★ ★
なんじゃい! このくそつまらん書き出しは!!
怒りで床の上に昏倒しそうになる自分を必死に踏みとどまらせることは成功した。次に和美がするべきは、精一杯の平静さを装いながら、イヤミをたっぷりこめて、学食中に響きわたれとばかりの声量でこう言ってやることだ。
「あらあら、芽依セ・ン・セ。長らくお待ち申し上げていただけあって、とても素敵なモノローグから始まるのね。で、この続きはどうなっているのかしら。真っ白ね。ブラックライトでも当てると浮き上がってくるのか・し・ら〜」
「エチュードで作る」
腕を組みながら事もなげに言った芽依を、和美は思いっきりはたいた。
「いまごろ、何よ! さんざんホンが上がらないって稽古場にも来ず、あと2週間で本番なのよ。エチュードで作るなら、もっと前から本格的な稽古を開始できたじゃない」
こんなことなら、最初から即興芝居で作っときゃよかったじゃないか。お前が「高校のときみたいに脚本を書いてみたい」って言い出したんだろが!
学生劇団とはいえ、小劇場でやってみたいと1年半前に小屋は押さえてあった。チラシを蒔かなきゃいけないから、とりあえず『バッサライ』とオノマトペ的などうにでも取れるタイトルにして印刷した。「ばっさり」とか「さらば」とか「サライ」みたいな言葉が連想できていいじゃん、とか言いながら。
誰も検索していなかった。
『バッサライ』がアイスキュロスが書いたギリシャ悲劇にある詩篇のタイトルとカブるらしい、と判明したのは本格的に稽古を開始しようという本番3か月前だった。
そこからの迷走は思い出すのも苦々しい。まず、『バッサライ』を読むべき派、読まないべき派に分かれた。ミーティングを繰り返し、「だって、そもそもギリシャ悲劇をやるために集まったわけじゃないし」という至極当然の結論が出るのに、なぜか2週間もかかった。チラシにはいつものように、なんとでも取れる曖昧な短い文章と役者、スタッフの名前が載っているだけで、ギリシャ悲劇なんて一言も書いてないし。
なのに、芽依は図書館に籠もった。そんなこれまでの経緯を和美がまくしたてていると、それまで押し黙っていた大道具の真理恵が口を開いた。
「……もう、大掛かりなセットは作れないよ。黒幕だけで行くか、白ホリ敷いて壁を白く塗り直してホワイトキューブ的な空間を作るかね。別に赤でも緑でもかまわないけど、なんか単色で塗りつぶして舞台空間をでっち上げるしかないわね。あとは箱馬でも並べて、意味ありげに配置したり、動かしたりするあるあるパターンしかないわ」
「黒幕だけでいい。だってこれは壮大な宇宙の物語なんだもの。宇宙がなぜ生まれたかを解き明かす、物語」
和美は、芽依が脚本を書けなすぎて頭がおかしくなってしまった、と思った。
★ ★ ★
芽依がノートにデカデカと何かを書いた。ノートの罫線を無視して少し丸っこい文字で書かれた8つの文字列は、「CP対称性の破れ」と読めた。
「シーピー、タイショウセイ……の破れ? 何それ?」
「これね、めちゃくちゃ面白い話なんだよ。ていうか、まだ、全部を理解なんかできていない。でも、『どうして今の宇宙が、今の姿であるのか』に関する話で、しかも、いろいろとわかってきているようで、未だキチンと解明されているわけではないんだって」
「何それ? どういうこと? なんかのオカルトにハマったの?」
芽依が言うには、図書館でアイスキュロスを読んでみたものの、逆になんだかまったく書けなくなり、手に取ったのがそれまで興味もなかった宇宙物理学の解説書だった。何が書いてあるかさっぱりわからなかったが、脚本の執筆という現実から逃避するために、関連書を読み漁ったらしい。
「クリストファー・ノーランの『テネット』とか、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』に『反物質』って出てきたでしょ。あれの話」
芽依はとうとうと語る。宇宙誕生の1秒後、物質と同じ数だけ反物質が誕生した。物質と反物質は「対消滅」といって、出会うと消えてしまうので互いに打ち消し合っていなくなるはずだった。なのに、なぜか物質だけが残った。それが宇宙の大きな謎の一つ「CP対称性の破れ」で、物質である我々人間がいまここにいるのも、なぜか反物質がほとんどいなくなったからだ、と。しかし、反物質は宇宙から完全に消滅したわけではなく、雷が鳴るときに大量に生成される……。
その様子を擬人化して書いたのが、先ほど芽依が見せた、たった6文だけの脚本の冒頭なのだという。だが和美には意味がまったくわからない。
「ごたくは書き上げてから言ってもらえますか? どうドラマに展開するのよ」
「……だいたい、芽依の脚本って横に資料本が広がってる匂いがしすぎなんだよね。ていうかウィキペディア見ながら書いてるまとめサイトみたいな脚本」
いきなり真理恵が核心をついたダメ出しをする。一瞬、心底ダメージをくらったような顔をした芽依だったが、すぐに回復して自信ありげに言った。
「ま、でも、双子の話にでも、恋人同志の話にでもどうにもできるじゃない。ゲームのルールは『触れ合ったら消えてしまう』ってこと。最後、抱き合ったら消えちゃうみたいな感じにすりゃいいし。いける、いける」
なるほど。ルールが決まれば、エチュードでそれっぽいものはいくらでもできるか。はいはい、やりましょう。
★ ★ ★
2週間後、幕は開き、いつものようにわずかな観客を相手に煙に巻くような苦痛の時間を与えることには成功した。
連日の打ち上げで、芽依は他劇団の友人にご満悦そうに「今回は宇宙誕生の謎を描いたんだよね。ギリシア悲劇も参照にしながら」と語り、「すごいなあ、芽依さんは」などと小さな世界からの称賛を得ていた。
うん、やっぱり芽依に着いていこう。まあ、今回はひどいデキだったし、実際のところ、ストーリーを組み上げていったのは劇団のメンバーたちだが、それをすべて自分の手柄にしていく芽依のこの厚顔無恥さは、作家、演出家として武器だ。芽依と真理恵と3人ならきっとうまくいく。和美はそう決意した。
劇団を対消滅させることになる男、和也が入団してくる半年前の夜の話だった。
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