ぶん殴ってやろうか【短編】
駅前から歩いて帰る最中、恋人たちとすれ違った。
「あたしが自分の仕事やキャリアのことだけを考えたら、こんなゴミ溜めみたいなところにいないって」
腕を組んだカップル。女性の側が言う。
すれ違いざま、その言葉だけが聞こえてきた。
ふむ、「それだけあなたを愛しているのよ」という話なのだろう。たまたますれ違った自分には関係ない、愛し合う二人だけの会話。
だが、そのゴミ溜めみたいなところに住んでる自分が見下されているような気がした。
ぶん殴ってやろうかと思った。
安心してほしい、人生で人を殴ったことなど一度もない。少なくとも中学校以降は。実際にやるわけもない。それじゃ、ただの通り魔だ。
しかし、殴ってやろうかと思った自分に驚いた。
★
その晩、一人で酒を飲んだ。
よくよく考えれば、「ゴミ溜め」という言葉がこの街を指しているのかもわからない。彼女の今置かれている境遇かもしれない。発言の真意など、問う必要もない。
問題は、なぜ自分があのすれ違いざまに聞こえた一言にこんなに執着しているか、だ。
★
そうか、と気づく。この街をゴミ溜めと思っているのは自分自身なのだな。住みよい街と思っていれば、ひっかかりもしないだろう。
「何者かになりたい」と思いながら、その「何者」の具体的なビジョンも描けない自分。仕事からこの狭い街に戻ると、汗臭いベッドに寝転び、ただただYouTubeを見て過ごして、「何者」になる努力もしていない自分。本当はこの街を抜け出したい自分。
そう、俺は自分自身をゴミだと思っていたのだ。そして、勝手に自分のことを卑下されたような気持ちになっていたのだ。しかし、意外にも俺はこの街に愛着をもっていたのだな。「ゴミ溜めみたいなところ」という言葉にこんなに反応するなんて。
★
「単に性格の悪い女だったんでしょ」
俺は生まれ変わるんだ、こんなことがあって気付かされたよ、という話を行きつけのゲイバーで話していたら、ママにバッサリと切り捨てられた。
「あんた、そうやって何でもポジティブシンキングに持ってく癖、やめたほうがいいわよ。ちょっと気持ち悪いから」
そうかい。そうかもしれないね。俺はタバコに火をつけて押し黙った。長い付き合いだからな、これ以上話すと余計な口論が始まることはわかっている。
「お会計」
一本吸い終えて、グラスに残っていたウーロンハイを飲み干すと、3000円をカウンターに置き、足早に俺は店をあとにした。
★
ポジティブシンキング? 気持ち悪い? あいつはすぐにバッサリ切り捨てやがる。もう少し、客をもてなせってんだよ。だから、あの店、いつもガラガラなんだよ。
店からの帰り道、さきほどの会話を思い出し、段々と怒りが高まって頭がぐるぐるとしだした。
やっぱり今からでも店に帰り、ぶん殴ってやろうかと思った。
安心してほしい、人生で人を殴ったことなど一度もない。少なくとも中学校以降は。実際にやるわけもない。それじゃ、ただの暴行事件だ。
しかし、殴ってやろうかと思った自分に驚いた。
★
「すげー、すぐにぶん殴ろうとするじゃん」
バイト先で先輩に昨夜の話をすると、けたたましく笑われた。
「だいたいさあ、人をぶん殴ろうなんて、20歳超えたいい大人が思わねーって。お前みたいな暗い、中高生のときにケンカもしたことないヤツがキレると手加減知らないから、どでかい事件を起こしちゃうんだよな。怖い、怖い」
よし、やってやろう、と決意した。
人生で初めて人を殴った。
★
「被告は証言台の前に」
裁判官にうながされて立ち上がる。傍聴席には2人しか座っていない小さな法廷。俺は「被告」という何者かになってしまった。
先輩の言う通りだったな、と思う。
「判決を言い渡します。被告人を懲役5年6月に処する。未決勾留日数中90日をその刑に算入する」
俺は「被告」という何者から「服役囚」という何者になる。
★
「いきなり殺しちゃったの? やるねー、素人さんは。俺らでも傷害はしょっちゅうだけど、コロシまでいくのはなかなかいないよ」
同房の仲間に言われた。
ガサツな性格の彼には腹が立つこと多いが、もうぶん殴ってやろうとは思わない。
★
「あのおじいちゃんね、若いときに人を殺しちゃったことがあったんだって。はじめてのケンカで、手加減がわからなくて。それで反省して、刑務所から出てきてからは一生懸命、償いのために働いてきたんですって。ずいぶん苦労されたみたいだけど、働いたお金をご遺族と犯罪者更生団体に全部寄付して。偉いわよね」
あの婦長、俺が人工呼吸器に繋がれてもう死にかけてると思って、いつだかにこっそりと話した話をしてやがる。しかも、俺の人生を短くまとめやがって。
ぶん殴ってやろうか。
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