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ころがろう書店の定期便|檀流クッキング

ときめきのままに契約した「ころがろう書店の定期便」。

6月分が届いた。
契約したとき以上のときめきとともに。

一人一人に合わせて選書し、本当にお勧めする本を送ってくれる。
これほどときめくサブスクがあるだろうか。
この時点で私の幸福度はほぼマックスまで跳ね上がっている。

そして、選んでいただいたのはこちらの本。
ちなみに読み途中。

文壇随一の名コックといわれる檀一雄の、レシピ本。
レシピ本と言われるが、言うなれば料理エッセイであり、その軽快な文体がたまらなくおかしい。
その文章に、私はいま夢中である。

梅干しだの、ラッキョウだの、何だか、むずかしい、七めんどうくさい、神々しい、神がかりでなくっちゃとてもできっこない、というようなことを勿体ぶって申し述べる先生方のいうことを、一切聞くな。檀のいうことを聞け。

檀流クッキング 檀一雄

檀のいうことを聞け、ときた。
こんなレシピ本があるだろうか。
聞けと言われたらその通りにやろうかと思う。執筆から70年以上の時を経て、檀に包丁を握らされるのだ。

コミカルな文章からは、檀の食へ対する情熱が伝わってくる。
情熱どころではない。
料理は彼の人生の幸せだったのだと感じる。

私など、塩ザケの頭が、店先にならんでいたら、親のカタキにでもめぐりあったように、三つでも、四つでも買ってくる。最も廉価な、地上の仕合わせが、たちどころにら実現するからだ。

同上

ソーメンをサラサラとすすり込むのは、夏の日の日本の愉快と仕合わせだといった。

同上

食を「愉快」といい、料理を「痛快」と表現する人物を、私は初めて知った。

だけど、そう言われると、料理に没頭し、理想のものができた時のあの多幸感は、「痛快」という言葉がもっとも適しているようにも思えるのだ。
そしてまた、食卓を囲み、幸せを共有しながら食を楽しむのは、あるいは1人でその美味しさを噛み締めるのは、「愉快」以外の何者でもない気がする。

さすが太宰の盟友、檀一雄。
文章が頁のうえで生き生きと弾んでいる。
檀風にいうと、「オツなことである」。

彼の話をもっと聞きたい。
贅沢をいうならば、飲み友達になりたい。絶対に面白い。
あぁ、彼が73年前に亡くなっていることが残念でならない。


そしてこの出会いを与えてくれたころがろう書店さんに、厚く御礼を申し上げたい。
古本の定期便、たまらない。

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