見出し画像

印象派の霞んだ世界で私を見つけて

いつの間にか私たちは引かれた線にこだわりを持たなくなった。
あまりにも繊細な線。確かそんなものでも、名画を駄作に変えてしまうほどの力があったはずなのに。
写実的でいてロマンチックな、
平面的でいて立体的な、
親近的でいて由々しい、
朗らかでいてどこか昏い、
そんな微妙なニュアンスを理解することを諦めた私たちは、
いつから写真を水に落として滲ませたような、ふやけた現実でなんとなく実態を掴もうとすることに美徳を感じ始めたのだろうか?

「印象派」
皮肉でつけられたこの名前が、美術史の重要な一代を築くことになるとは、ルロワも思わなかっただろう。
過去と伝統からの独立と反抗、
そしてより自由気ままなスタイルを求めて、
輪郭はどんどんぼかされていった。

そのもの自体の姿形、細部のディテールよりも
印象に重きが置かれる世界。
その朧げな輪郭から、私たちは自分に都合のいい景色だけを想像して
投影しているのかもしれない。
見たくないものからは目を背けて、
ぼかして、ぼかして、ぼかして…

写真にも動画にもフィルターがかかって、
もはやその人が実際どんな姿形なのか
知ろうとも思わない人も多い。
鏡にどう写るかよりも画面にどう写るか、
もうそんな時代なのかもしれない。
昨今、インスタのフィードが充実している人の方が、
本棚が充実している人よりも年収が高いらしい。
現実の姿形のみならず、中身までも必要とされない私たちは、
一体何者なのか?
まさに「印象」としてしか必要とされない。
その事実に物悲しさを感じるのは、
私が20世紀の人間だからだろうか。

自分を理解してもらうのはもうだいぶ前に諦めてしまった。
同時に、他の人を深く理解することも諦めた。
時代にそぐわない気がしたから。

その代わりと言ってはなんだが、
あまりにも滲んだ人となりを、利便性に乗じて表層的に理解する
簡単な方式として、私たちはレーベリングを覚えた。
自分は「〜系」の人だ
とレーベルをつけて売り込まないと
他人から理解どころか興味すら得られないから。

地雷系、教育系、JK、港区女子、丸の内O L、意識高い系金融・商社マン、下北とかにいるサブカル・古着系…
ツイッターのプロフィールとかインスタのBIOでお馴染みの
自己レーベリング。
私たちは自分にはっ付けたレーベルとハッシュタグの狭い枠組みに
自分を縛り付けて、行動し、発言し、発信することで
なんとかアイデンティティを保とうと頑張るのである。

今は「多様性」の時代だなんて、
一体どこの誰が言い出したのだろうか?

世の中の大体のものを大雑把に客観的括りで
線を引いて区別するのに不満を抱いて否定した私たちは、
結局その線をこすり取って、もっと主観的で独りよがりな括りに
自分達を再分したに過ぎないのかもしれない。

世界がこれ以上滲んだら
もう原型を想像もできないくらいにぼやける前に、
急いでドライヤーで乾かしたら
私はなんとかそこに自分を見つけられるだろうか?

見つけられるといいな。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?