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コンテンツへの愛の文脈



「十二国記めっちゃ面白いわ~、淡泊なけいさんが熱弁を振るうのわかる」
「だろ? そうでしょ? マジで人間観が変わるよね~」
「でもけいさんのアイカツ好きは理解できない」
「そりゃああなた、私が病気で引きこもっていたときに出会ったのがアイカツだから愛が重いのよ。アイカツがなかったら人間やめてるし。十二国記もいじめられてたときに読んだから、出会わなかったら死んでたと思うけど」
「え? あ、そうなん?」


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 その人がなぜそのコンテンツを愛しているのかについて、他者が深く想いを馳せる機会はあまりないのかもしれない。誰かに推薦するときも、オススメ、とか、すき、とかいう一言でまとめてしまうことが多いし、愛が重たい理由をわざわざ説明する必要性を感じない人もいるのではないだろうか。

 私にとって、小野不由美さんによる「十二国記」シリーズは、思春期におけるいじめの経験と非常に密接に結びついている作品だし(だからこそ私は陽子や高里、あるいは広瀬に、ほとんど自己投射ともいえる強烈な感情移入をしてきた)、キッズアニメ「アイカツ!」は、病気になり仕事を辞め夢を諦めざるを得なくなって自宅に引きこもっていたときの苦しさから私を救ってくれた作品だけれど、目の前の誰かにこれらのコンテンツを推す、あるいは語るときに、私のこのような文脈まで説明することはほとんどない。(文章で書くことは多いけど。)
 一つには、相手が受け入れてくれるかどうかもわからないのに、弱すぎてみっともなかった過去の自分を曝け出すのはやっぱり怖いと思うからだ。もう一つには、私のプライベートな情報を挟まずに、純粋に作品をいい・好きだと感じてほしいからだろう。

 このことを自省するとき、相手が私に「これすごくいいよ」と熱烈に薦めてくるモノにも、もしかしたらそういう背景があるのかもしれない、と思う。

 もちろん、ただただ単純に「このコンテンツが好き」その気持ち一筋という人もいるだろう。だけど、誰もがみな、「好き」という感情の奥深くに「当然のようには言語化しえない理由を持っているのかもしれない」と考えてゆくほうが、やさしい世界になる気がする。
 言えないだけで、深く愛するわけがあるのかもしれないなら、たとえ私がそのコンテンツを同じ熱量で好きになることはできなくても、相手の愛情は尊重したいし、大事にしてあげたいと思うのだ。




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